カイト・カフェ

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「恩とあだの見積もり」~”東須磨小、教員いじめ事件”②

 極悪非道の教師だから私刑にかけていいということにはならない
 真相を究明するためにも
 曲がりなりにも教師として10年・20年とやってきた教師が
 なぜこんなことをするに至ったのか
 加害者の内面も観てみなくてはいけないだろう

という話。

f:id:kite-cafe:20191029071156j:plain(「天秤」PhotoACより)

【被害に関する違和感】

 殴る蹴る、熱湯入りのやかんを顔に押し付け、首を絞め、ビール瓶を口に突っ込んで飲ませた上に瓶で殴る――“よくこれで死ななかったものだ”、そう考える人はいるでしょう。“これほどのことをされてなぜ警察に駆け込まなかったのか”、そう疑問を持つ人もいるはずです。
 “殴られた跡、火傷の跡はどうなったのか”といった点に目を向ける人もいれば加害者に目を転じて、“ハングレでもあるまいし、これだけの暴力をなぜだれも止められなかったのか、これ以上やったらヤバイと言い出す者はいなかったのか”とあきれる人もいるでしょう。

 しかしそれは被害者教諭の訴えに時間軸が入っていないからそう見えるだけなのです。

 これらのことは1日とか1週間とかいった短期間ではなく、少なくとも半年以上の間に起こったできごとです。
 訴えられた暴力的被害・強要被害は11項目ですから、期間を半年として単純に割ると月二回程度、登校日数で計算すると10日に一度の割で、しかも11項目の中には「乳首を掃除機で吸われる」「車での送迎を強いられる」といった“残虐”とは多少距離を置く内容もあります。

 十日にいっぺんの残虐――では残りの9日間はどうだったのか?

 これは推測でしかないのですが、残りの期間は「関係が良かった」か「問題はあったがさほどのものではなかった」か、「具体的な接触機会が少なかった」か、そういった感じではなかったかと思うのです。もし毎日過酷ないじめを受けていたとしたら被害者はこれほど長期間に渡って我慢することもできなかったでしょうし、何より加害者の側に恐れが生まれるはずです。警察に駆け込まれても自殺されても困るのです。

【“女帝”が男たちを救う】

 マスコミよって“女帝”と呼ばれる一番年上の女性教師は、保護者説明会に向けて書いた文章で、
「本当にそれまでは、被害教員には自分の思いがあって接していたつもりです。自分の行動が間違っていることに気付かず、彼が苦しんでいる姿を見ることは、かわいがってきただけに本当につらいです」
と書いて猛烈なバッシングにあいました。
 3人の男性教諭が平謝りに反省の弁を書き連ねたのに対して、女性教諭ひとりがこの期に及んで言い訳に終始しているととらえられたからです。

 しかし私に言わせれば男たちの謝罪文はどれもこれも似たり寄ったりで、行間から「こういう時は平謝りに謝っておけばいいんだ」といった不敵さが見え隠れしているような気さえします。
 ここで“女帝”が同じような文章を書いていたら、全員が不誠実に見えたでしょう。しかし女性教諭はひとり異質な言葉を並べることで非難を一身に集め、他の三人を救うことになりました。もちろん意図したことではないと思いますが。

 私は、主観的には彼女の言う通りだったのではないかと思うのです。
「被害教員には自分の思いがあって接していたつもりです」
「彼が苦しんでいる姿を見ることは、かわいがってきただけに本当につらいです」

 男性教諭の一人が書いた、
「自分自身の相手への配慮に欠ける言動や、軽はずみな言動に、最低な人間だと実感しました。一社会人として、人間として、恥ずべきことと考えています」
なんかより、よほど人間的です。
 “女帝”は本気で若い教師を育てようと支援し、かわいがってきたと思っているのです。彼女が見ているのは、被害教諭が“いじめ”を意識することのなかった残り9日間の方なのです。

【恩とアダの見積もり】

 普通、ひとは自分が施した恩は大きく、与えられた恩は小さく見積もるのが常です。私は子どもたちにも、
「誰かに何かをしてあげたりしてもらったりして『五分五分だ』と思っているときは、たいてい“してもらったこと”の方が大きいものだよ。『ちょっとこちらの方が“貸し”が多いかな』くらいのときが五分五分だと、そんなふうに思っておくといいよ」
 そんなふうに言っておきました。

 また逆に、ひとは誰かに負わされた傷は大きく見積もり、自分が傷つけた際には気づかないことすらあります。
 無意識に人を傷つけることを恐れるなら、できることは“前もってその人に良くしておく”くらいしかありません。そして常に相手を尊重して過ごすことです。
 これも子どもたちに話しておきました。

 神戸の「東須磨小、教員いじめ事件」はその組み合わせが最悪の形で現れ、肥大化したものではないかと思うのです。

 女性教諭は、陰に陽に若い被害教諭を助けたことしか覚えていません。若い教師を精一杯育てようとした膨大な“思い”と“エネルギー”を考えれば、激辛カレーを食べさせたのも大量のお菓子を口に詰め込んだのも、単なる仲間同士のじゃれあい、取るに足らないできごととしか感じられなかったのです。《そりゃあちろん、やりすぎたこともあったけど・・・》

 しかし被害教諭からすればたまったものではありません。
《教えてもらったり助けてもらったことは確かにあった。しかしだからといって苦手な激辛カレーを口に突っ込まれたり、菓子を詰め込まれたりではたまったものじゃない。これでもいちおう大人なのに、殴ったり蹴ったり、こき使われるのは我慢ならない、許せない》

 こうして恩とアダの非対称は極限まで大きくなっていきます。

                           (この稿、続く)