沖縄は知恵を使って決定的な分断を避けたが
世界はそうではない
「国民に問う」「住民に問う」は気をつけないと
取り返しのつかない分断の斧だ
というお話。(ドラクロア「民衆を導く自由の女神」)
【沖縄の知恵】
普天間飛行場の名護市辺野古移設を問う県民投票が昨日告示されました。
住民の直接請求によって実現した投票ですが、当初「賛成」「反対」の二択でで実施しようとしたところ宜野湾市などが協力を拒み、結局「賛成」「反対」「どちらとも言えない」の三択に変更することで全県実施の道が開けたものです。
二者択一がダメたったのは、例えば宜野湾市の場合、「反対」が多数だったら暗に「普天間基地の固定化もやむを得ない」と受け入れたことになり、「賛成」が多数だと「基地を名護市に押し付けた」と受け取られかねないからです。どちらにしても苦しい。
もちろんすでに辺野古移設反対派の知事を出していますから県民の意思ははっきりしているようなものですが、知事選は基地だけを争点に戦ったわけではありません。ですからいかようにも説明できたのです。
ところが今回は直接、辺野古移設の賛否を問うものですから、それぞれが旗色をはっきりさせなければならない。それが苦しい。
ご近所、友だち同士、あるいは会社関係で話題になれば、そのつど隠すか、嘘をつくか、ごまかして答えを保留するか、決然と本心を語るか、そもそも話題にならないよう最初から互いに気を遣うか――それだけでも大変です。
実際、宜野湾市と同じく協力を拒んだ沖縄市は「1997年の名護市の住民投票では市民が分断され雰囲気が暗くなった。こういう経験をさせたくない」との理由を挙げています。
今回「賛成」「反対」に「どちらとも言えない」を加えたことは、私は優れた知恵だと思いました。
住民投票では最多得票となった選択肢が有権者の4分の1に達すれば、県知事は結果を尊重して首相と米大統領に通告することになっています。ですから「どちらとも言えない」を入れることによって賛成派も反対派も4分の1を取りにくくなって「何のための投票だったのか」といったことにもなりかねません。
しかしそれでも、市民が二分されて遺恨を残すよりはマシです。
【イギリスの場合、アメリカの場合】
イギリスはしかし、そういった知恵を用いませんでした。したがってEU離脱がこれだけこじれて、にっちもさっちも行かないのです。
二者択一の国民投票というものがどれほ危険か、前もって気づく人はいなかったのでしょうか?
今日現在あらためて投票すれば残留派が勝つでしょうが、それで離脱派が納得するはずもありません。伝統的な保守党・労働党の二大政党制は崩れ、離脱党と残留党に再編成されたみたいです。
それは同時に残留派の多い若者と離脱派の多い老人の分断、そして離脱のイングランド(南)と残留のスコットランド(北)の分断をも意味します。
一方アメリカでは、トランプ大統領当選時には共和党内にも強固な反トランプがいて、「大統領」対「議会」みたいな感じでしたが、やがて共和党員の大部分が寝返ったり入れ替わったりして共和党本体がなくなり、今や「トランプ党」対「民主党」みたいになってしまいました。
「共和党」対「民主党」の時にはできた政治談義が、今はできなくなったと言います。トランプを支持するかしないかでは互いに一歩も引けず妥協の余地がないからです。
イギリスにしてもアメリカにしても、もともと二大政党制は「保守」対「リベラル」、「富者」対「貧者」みたいな対立を想定してつくられていると思うのですが、考えてみれば二者対立であれば何でも可能です。
老人と若者、北と南、白人と有色人種、労働者とエリート・・・。
二大政党制の先進国、イギリスとアメリカでは癒しがたい二者対立が進んでいます。
【日本の場合】
衆議院選挙で小選挙区制が始まった時、二大政党制になり易いこの選挙制度に関して政府や一部マスコミは、
「二大政党制になることによって政策論争がわかりやすくなり、国民の政党参加や支持が容易になるとともに、政権交代がしやすいため国民が政府を選択できる。したがって長期政権にありがちな政治腐敗を防ぐとともに、与党となった政党は単独過半数の支持を背景に大胆な政策転換が可能となる」
といった“いいことずくめ”の説明をしました。けれど私は当時にあってもその意味が分かりませんでした。
単純に、選択肢がたくさんあるより二つしかない方がいいというのが分からなかったのです。
それまでの中選挙区制では、
「自民党の横暴には我慢できないが社会党や共産党に政権が行くのも困る。ここは民社党を少し膨らませて二院クラブからも当選者を出し、連立を組ませてしばらく凌ぐか。自民が反省したら、また戻してもいいけどな」
みたいなブレンド感覚の投票ができたのです。しかし二大政党となるとモカかキリマンジャロか二つに一つで自分好みの味になりません。
そもそも階級差もなく貧富の差も判然としない日本で、二者択一の対立軸をつくること自体が難しかったのです。
巨大政党である自民党はごった煮政党で内部に右から左までフルセットで抱えていていますから、野党もどこに焦点を当てて対抗すればいいのかよく分かりません。選ぶ方も選ぶ方でいまだに一億総中流みたいな意識ですから自分の敵が誰なのか見えてこないのです。
いったんは旧民主党に政権を移してみましたが、結局は不器用な自民党でしかないことはすぐに明らかになり、同じ自民党なら器用な方がいいということで今日に至っています。
【白黒をはっきりさせて二者択一を迫ると私たちは過ちを犯す】
イギリスやアメリカで二大政党制がうまく行っていたのは、そうは言っても国民の半数以上の支持を得ようとしたら両者とも中道寄りにならざるを得ず、結局、保守党にしても労働党にしても、あるいは共和党にしても民主党にしても、右寄りだったり左寄りだったりするだけでそれほど極端な政策を掲げない、という前提があったからです。
国を二分するような政策判断が国民投票に任されるとか、中道を捨てた極右と極左が大統領の座を争う(例えばトランプとサンダース)ようなことは想定されていませんでした。ですからそういった状況が現れると、議会制民主主義は一気にバランスを失って、究極の二者択一となり国を割るのです。
民主主義は時に非常に危険な側面をもつということは、20世紀の初頭、当時世界で最も民主主義的と言われたワイマール憲法下で、ナチスが台頭したことで証明されています。にもかかわらず私たちは同じ轍を踏もうとしています。
トランプもプーチンもエルドアンもドゥテルテも、みんな国民が選んだ大統領です。
極端な主張を掲げた個人または集団が有力な候補として立ち上がってくるとき、選挙はイギリスの国民投票同様、国を二分させる危険なものとなることに注目しなくてはなりません。