カイト・カフェ

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「文化・文政のピカソと庶民」~文化史をこんなふうに教えておけばよかった3

 100年の時間を隔てて、北斎ピカソは似ている
 長生きの天才とはそういうものかもしれない
 それにしても北斎を買い続けた江戸後期の庶民たちもすごい
というお話。 

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葛飾北斎 諸国瀧廻り)

 

【20世紀のピカソ

 ピカソの絵は理解できない、1枚も好きになれないという人がいたら、それはきちんとピカソを観たことのない人です。
 なにしろ生涯に15万点もの作品を残した人です。しかも題材もタッチもまるで違う絵が何種類もあるからです。

 私はかつて、小学校1年生にピカソを観て考えさせるという画期的な授業を見たとがあります。もちろん授業者は大学で美術を専攻した人です。
 驚いたことに(あるいは当然なのか)、子どもたちが辿りついた答えは、
「飽きちゃったんじゃないかな?」
でした。一つの正しい答え――もしかしたら唯一の答えかもしれません。
 何をやっても次から次へと飽きてしまう・・・。

ピカソはいつも、『さあ、今日はどんな絵ができるかな』と言っていた」
という証言があるように、ピカソ自身も前もって見通しがあったわけではなく、そのときそのときで創作を楽しんでいたのでしょう。

 ただし気楽にやっていそうな一方で、
「明日描く絵が一番すばらしい」
ミュージアムをひとつくれ。埋めてやる」
と自信のほども見せています。

 たいへん筆の早い人で表現も多彩でしたが、それだけに盗作疑惑も絶えない人でした。ただし本人はいたって平気で、「凡人は真似る。天才は盗む」などとほくそ笑んでいたようです。
 天才は他人の作品からヒントを得て換骨奪胎して己のものとする、という意味で、作品の出来栄えをみれば誰も抵抗できなかったようです。だからピカソは偉大なのです。

 あまりにも多様多彩なので「ピカソはいったい何人いるんだ?」とも言われました。
 抽象絵画で有名なアメリカの画家ジャクソン・ポロックピカソの画集を床に投げつけ「ピカソが全部やっちまっている!」と叫んだという伝説も残っています。

 つまりモノとしての「ピカソの絵」はあっても、作風としての「ピカソの絵」はないのです。すべてがピカソなのです。

 下は時代の異なる、いずれもピカソの作品ですが、このたった4枚を見ただけでも、「悪くないな」「部屋に飾っておいてもいいな」といったレベルでいえば、「ピカソは分からない」とか「嫌いだ」とか言う人はいなくなるでしょう。f:id:kite-cafe:20190212201946j:plain
(左上)「椅子に座るオルガ」 (右上)「科学と慈愛」 (左下)「マリー・テレーズ・ウォルター」  (右下)「座る裸婦」

 たった4枚からも選べるということは15万枚もあればいくらでも好きな作品が探し出せるということです。

 

北斎の場合】

 葛飾北斎も同じです。

 下の4枚の絵に富嶽三十六景を加えて並べ観た時、同じ作者の作品だと判じることは知らなければ無理でしょう。

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(左上)「北斎漫画」 (右上)「酔余美人図」(左下)「鳳凰図」  (右下)「生首の図」

  北斎は90歳で没するまでの84年間画家であり続けましたし、その間さまざまな画風、技法の変遷を繰り返し、生涯で3万点余りの作品を残しました。

 たいへん好奇心の強い研究肌の人だったらしく、美人画・風景画・春画・奇想画、絵本・挿絵・屏風絵・天井絵、刷物・肉筆・銅版画・ガラス絵、そして結局は実現しませんでしたが油絵にも関心を寄せていたと言います。

 速筆でアイデアに富み、ニワトリの足に朱をつけて紙の上を走らせ、モミジの葉を描かせたといった逸話も残っています。
 180㎝の長身で晩年は6尺棒を杖として歩いたようです。身なりはいつも薄汚れていて、部屋も荒れ放題。金にも無頓着なので常に貧乏していたといいます。生涯に30回名前を変え、93回の引っ越しをしました。あるときなどは1日に3回も引っ越したそうです。
 そのあたりはピカソとはだいぶ違います。
 冬は炬燵に入ってそのまま出ず、絵を描くのも食事をするのも、寝ることさえもそこでしました。

富嶽三十六景」を発表した際、北斎はあとがきに次のように記しています。
「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。 100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」

 娘のお栄も、
「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ」
と証言しています。しかしこれは謙虚と言うよりは目指すものが高すぎるのでしょう。

 1849年(嘉永2)に亡くなるときも、
「天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら」と言い、しばらくして「天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら」と言い直して「必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう」と語ったとされています。
 死の直前まで高い自負と意欲を持った人でした。

 ピカソより100年も前の人ですから北斎を「文化・文政のピカソ」というより、ピカソを「二十世紀の北斎」と呼ぶべきかもしれません。

 ともに早熟の天才で90歳(北斎)、91歳(ピカソ)と死亡年齢もほぼ同じです。妙な符丁とも思えます。

 

 【誰が天才を支えたか】

 ところで文化史を学ぶ上で、芸術家がどうやって飯を食っていたかということは案外重要な問題です。
 例えばモーツアルトは宮廷・貴族・寺院のお抱え作曲家としての収入(それぞれ長続きはしませんでしたが)、演奏会、楽譜出版、レッスン、ゴーストライターとしての作曲料などが主な収入源です。
 もちろんこれは貴族社会あっての収入で, 市民革命直後の宮廷作曲家の生活はどうだったのか。モーツアルトは幸い早死にしていますが、そのあとの音楽家たちがどうだったか調べてみると面白いかもしれません。

 あるいは19世紀後半、カメラが発明されて肖像写真が撮られるようになった時、肖像画を生業としてきた画家たちはどうしたのか。正確無比な写実風景画を得意としていた画家たちも、白黒とはいえほとんど一瞬のうちに風景を切り取ってしまうカメラにどう対抗したのか。
 これも興味あるテーマです。

 北斎の場合は注文に応じて絵を描くこともあれば挿絵画家としての収入もありました。「北斎漫画」のようなイラスト集も出版していますし、大名や豪商に招かれて即興で絵を描くこともありました。
 しかし何といっても浮世絵の原画作家として、版元からもらう収入が最も多かったように思われます。当代きっての売れっ子画家でしたから。
 そこで私はハタと気づいて心動かされるのです。

 北斎の時代には浮世絵も安くなってそば一杯の値段と同じ程度だったと言います。しかし翻って現代、そば一杯800円としてその金で定期的にポスターを買おうとする人が何人いるでしょう。
 役者絵はブロマイドで春画はポルノですから現代でも一定の購買層はいますが、風景画のポスターなんてそうそう買うものではありません。

 そう考えると文化文政期の庶民の、教養の高さに心震えるのです。