カイト・カフェ

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「あのサインはしても良かったのか」〜超管理社会への怯え

f:id:kite-cafe:20181130185417j:plain 先週のJBpressに「上海で異変、日本人がどんどん逃げ出している!」という記事がありました。

【美しく整然とした上海の翳り】

 2007年にロサンゼルスを抜いて世界一在留日本人の多い都市(4万7731人)となった上海は、2012年の5万7458人をピークに年々人数を減らし、2017年にはついに4万3455人にまで減ってしまった(世界第4位)。
 かつては日の出の勢いで「上海マイコツ(埋骨)会」と称する集まりができるほどであったのが、今、日本人は先を争うように中国脱出をしようとしている。

 原因の第一は外国人が居留申請をしにくくなったことだが、それ以外にも理由があるのではないかと筆者は言います。
 それは、上海に住む日本人が上海に「明るい未来」を見出せなくなったことだ。

 そして筆者は友人の言葉として次の二点を拾い出すのです。
「上海で私が通っていた馴染みの飲食店はすっかりなくなって、チェーン店ばかりになっていました。ひっそりと経営していた“地元の味”は跡形もありません。街はきれいになりましたが、共産党の“中国夢”のスローガンで覆いつくされています」

「なんでもスマホで済ませられる生活は確かに便利です。けれども、自分の消費データはすべて企業に吸い上げられ、それが今後、個人の格付けに使われるといわれています。中国では13億人を格付けする信用社会システムが始まろうとしています。赤信号を横断すると減点、駐車違反でも減点です。点数が低いと航空券が買えなくなったり、子どもの進学先が制限されるなど、さまざまな制限を受けることになりそうです・・・」

 北京などとは違って上海は空もきれいで街も整然としており、市民のマナーも向上して道ゆく人々の服装などもこざっぱりとしておしゃれ――そういった印象があります。
 しかしその整然とした街並みやきちんとした市民の姿が、超管理社会の権力によるものだったとしたら、私たちはそうした世界に生きることを“良し”とできるかそうか――。

 

【「1984年」と「マトリックス」】

 ここで私はひとつの小説とひとつの映画を思い出しました。
 小説はジョージ・オーウェルの「1984年」、映画の方は「マトリクス」3部作です。

 小説「1984年」は第二次世界大戦が終わり、米ソ二大陣営による冷戦が始まろうとしていた1948年に書かれた反ユートピア未来小説です。日本では表題となった1984年に大ベストセラーになり、そのとき私も読みました。
 その始まりはこうでした。

『1950年の核戦争終結後、世界は三つの超大国に支配され、互いにいがみ合うようになった。それぞれの超大国国家主義を深め、主人公の暮らすオセアニアでも思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョンと、町じゅうに張り巡らされたマイク網によって昼夜を問わず監視されている。
 歴史は繰り返し改竄されるためにもはや世界がどうだったのか、この先どうなっていくのか全く分からない。その中にあって、主人公はある疑問を持ち始める―』

 一方映画「マトリックス」は、ちょっと癖はあるものの平凡なサラリーマン生活を送っていた主人公が、ある日自分の住む世界がすべてコンピュータによってつくられたバーチャル空間であり、現実の自分は培養器のような水槽の中でチューブにつながれて生きていることを知ります。そして仲間たちの協力を得て、コンピュータ世界に決然と戦いを挑むのです。

 

【2018年・中国・上海】

 小説「1984年」の“オセアニア”はテレスクリーンとマイクによって国民を支配する設定でしたが、街じゅうの監視カメラとコンピュータのデータで一元支配する中国は、すでに“オセアニア”を越えたと言えます。

 また映画「マトリックス」は3部作の最後で、すでに“人格”と言っていいものまで身につけてしまったコンピュータを抹殺しきれず、共存の道を選択する――つまり主人公が平和に暮らしていたバーチャルの世界も認め残すことで解決が図られます。それも中国によく似ています。

 人々は何者にも支配されない完全な自由より、たとえ監視され支配され抑圧されたものであっても、平和や安寧、そして経済的な発展を求めたのです。

 

【私たちの未来】

 私は中国を悪く言うつもりはありません。なぜならそれは私たちが進もうとする未来のひとつの型だからです。

 固定電話もFAXも知らずガラケーもなく、スマートフォンからいきなり通信を始める発展途上国は相当数あります。現金も為替も、そもそも銀行も頼りにならず、電子決済が最初の金融システムだという国だって少なくありません。
 それらの国は上海の門前まで来ていると言えます。

 今、いつまでも現金にこだわっている日本も、政府の旗振りのもと盛んに電子決済に移行するように言われ、若い人たちは現金使いをバカにしています。上海は目の前――。
 しかしそう言う私自身も電子決済は多用しますし、個人情報を一元化するマイナンバー制度もなかなかいいものだと思っていたりします。

 さらに社会的な信頼関係だとかマナーが十分ではない国では、社会信用システムのような制度も効果があって必要かもしれないと、考えたこともありました。
 しかし制度というのは一度つくられると弊害のない限り、必要がなくなっても残るものです。

 犯罪歴がないばかりか交通法規も遵守し、人に親切であり、税金やその他の支払いに滞納がなく、役所や企業にもクレームをつけない――そういった一切が点数化され評価されるといった社会信用システムは、いったん始められたらやめさせることはできない。その大本を政府が握っているとしたら――。

 今はそうした国や都市から逃げ出せばいいだけですが、よほど注意しないとこの国がそういう社会になってしまいます。

 【あのサインはしても良かったのか】

 先日、宅配業者がきたのではりきって印鑑を持って玄関口に出たら、スマホを差し出されて、ここに指でサインするようにと言われました。制度が変わったのだそうです。
 たまたまその翌日、IHヒータの修理に来た業者が最後に作業終了のサインをということでタブレット端末を差し出し、そこにサインを求めます。
 タッチペンはないかと訊ねたら今は持っていないとのこと、そこでやはり人差し指でサインをしましたが、あれは何を証拠として残したのでしょう。

 書きなれないのでとてもへたくそな字で、そんなサインが証拠となるとは思えません。もしかしたら残したのは文字ではなく、指紋だったのかもしれないのです。

 宅配業者や修理業者も日本のトップ企業ですから信用するとしましょう。しかしシステムをつくったのは誰かわかりません。作成者あるいはその組織が粛々と指紋データを収集しているとしたら、私はあまりにも簡単に個人情報を差し出してしまったことになりいます。

  あのサインは本当にしてもよかったのか、これからは顔認証を破られる可能性も考え、写真一枚誰にも撮らせないようにしなくてはならないかもしれない――。
 私は何か、とても不安になりました。