「我々はどこへ行くのか」~王様の耳はロバの耳、かもしれない③

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ポール・ゴーギャン 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(パブリックドメインQ)

【事件がもたらすもの】

 財務次官という社会的に責任の重い立場にある人物による不適切な行為が表に出なければ、今後もセクハラ被害が黙認され続けてしまうのではないかという強い思いから、週刊新潮に連絡して取材を受け、録音の一部も提供した2018.04.19毎日新聞)という女性記者の行動は、一人の事務次官を辞任に追い込むだけでなく、国会を空転させ、麻生財務大臣安倍総理大臣の喉元に匕首を突きつけるまでに大きな動きへとつながっていきました。

 この事件によって官僚はもちろん、政治家、政財界人、芸能関係者、スポーツ関係者等々、およそ恒常的にマスコミの取材を受ける人々は自らの行動を見直すことになりました。
 考えてみれば「オフレコ」と言えば絶対に録音されないと考えたのは甘い認識で、悪意はなくとも、記憶の補強の意味で隠れて録音をしている記者はこれまでだっていたのかもしれないのです。その記者がICレコーダを紛失し、拾ってはならない人が拾ってしまう可能性だってなくはなかったのです。なんと無防備な日々を送っていたのでしょう。
 取材対象となる人々は、今よりずっと慎重になり、官公庁・各企業・組織のトップからは、報道関係者とのつき合い方に様々な注文が出されるようになります。

 振り返って自分に若い女性記者が貼りついているようだったら、新聞社や放送局が自分をそういう人間だと値踏みしているのかもしれません。誤解されたくなかったら「ペンス・ルール」を適用して、女性記者とは決して一対一にならないよう、常に心掛けるしかありません。そんなふうに女性を遠ざけていれば、メディアの方もやがて気がついて記者を男性に変えてくれるはずです(こちらから男性記者に変えてくれとは言えません。差別になりますから)。
 こうにして女性は取材の最前線から遠ざけられ、特ダネを手に入れて自己実現する機会を失います。しかし同時に、それは取材対象者から記者がセクハラ被害を受ける機会を減らすという意味では、むしろ好ましい傾向と言えます。

 あるいは、今回の事件を通してそもそも「番記者」といった “個人的な繋がりを基礎とした取材”自体が間違っていると考える人たちも出てきています。
 当然記者の立場からすれば「それを否定されたら特ダネなんて絶対に手に入らない」ということになりますが、国民は官僚や議員あるいは各界トップと報道記者との個人的な関係というものに、何やら胡散臭いものを感じ始めているのです。やがてそこにも、何らかの批判の声が上がることでしょう。
 時代は確実に変わります。

【女性を利用する人々】

 しかしだからと言って、事件の発端となった日本テレビの女性記者が一方的に悪いと言うつもりはありません。

 福田淳一通産省元次官という、女性に対して特に脇の甘い官僚のところに女性を送り込んだのは何と言っても日本テレビ報道局です。そうした危険な場に送っておきながら十分な支援をしなかったのも日テレの上司たちです。
 週刊新潮は運良く手に入れたゴシップを“正義”の箱に畳み入れて世に送り出し、それで大儲けしました。彼女の代弁をしたわけではありません。
 野党議員たちはそれこそ鬼の首を取ったかのように記事を振り回して、政府・自民党を追い詰めようとしています。

 みんな彼女を“聖女”扱いにし、守ろうとしているかのように見えますが、それとてこの事件に利用価値がある間だけです。ほとぼりが冷めれば、報道倫理の逸脱者としてその世界から放逐されるだけです。
 これはセクシャルハラスメントではありませんが、女性とその運命を翻弄するという意味では、似たようなものです。

【正義の振りかざされるとき】

 正義の旗印が振りかざされるときはいつもそうです。
「セクハラは“する”方が100%悪い。被害者には何の落ち度もない」

 私は元学校関係者なので経験に照らして言えば、
「いじめ問題も“する”方が100%悪い。被害者にも落ち度があると言うのはそれ自体がいじめだ」
 今はさすがに言わなくなりましたが、「不登校は学校と現在の教育体制にすべての原因がある。本人の個性や成育歴に原因を求めるのは、学校の責任転嫁だ」
とか
「教師が楽をするために作った山ほどの校則が子どもを追い詰め、非行に走らせている」
とか。
 いずれも悪いのは片方だけで、もう片方は全く問題がないというやり方です。

 しかし人間関係の中で起こることを100対0で説明してはいけないのです。現象をバッサリと切り分けると、事実が見えなくなくなり分析もできなくなります。


 例えば今月20日、野党の女性議員が黒い服を着て財務省を訪れ、“#Me too”と書かれたプラカードを掲げて抗議を行った(2018.04.20 朝日新聞)件。自民党の某議員がツイッターに「こちらの方々は少なくとも私にとって、セクハラとは縁遠い方々です」などと書いた(2018.04.23 朝日新聞)ためにさらに大きく報道された事件ですが、私はその「黒い服を着てセクハラに抗議」という意志表示の元となった、アメリカのある出来事に強い違和感を持っています。

 それは今年1月のゴールデングローブ賞受賞式でのできごとです。多くの女優が黒い服装で会場入りし“#Me too”への共鳴を示した、そのドレスのデザインが、腰の近くまでスリットの入ったスカートだとか、胸が露になりそうなほど深く切り込んだ襟だとか、メッシュとか、とてもではありませんが男性の性的関心を拒否するようなものではなかったのです。そんなドレスで「セクハラ反対!」と叫ばれても素直になれません。
 こうした難しさこそ現実なのです。

 日テレの女性記者を聖女のように扱うのは、ゴールデングローブの女優たちがあたかも修道女のような格好で「私たちを性的な存在として見るな」と叫んだよう報道するのと同じです。

【我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか】

 この事件に関するマスメディアや野党の扱いに、私は不満があります。
 世の中には天使と悪魔しかいないような報道の中で、私たちはどこに連れていかれるのでしょう。

 街の安酒場ではオジちゃんやオバちゃんたちが困惑しています。音声データにあったような会話を、男も女も、年がら年中、朝から晩まで大声でやってきたからです。これがセクハラなら明日から何を話せばいいのか――。
 
 別の街では、夕暮れの防波堤に並んで座る十代のカップルの間に激しい緊張が生まれます。男の子は今の状況で「キスしてもいい?」と訊ねていいものかどうか、空気を読みあぐねて心臓をパクパクさせています。もちろんそんなことを口にしないで顔を寄せるという方法もあると思うのですが、それはもっと悪いことなのかもしれません。でもどうしたらいいのか分からない――。

 そんな時代が良い時代だとは、とてもではありませんが、思えないのです。

(この稿、終了)