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「市内大会ご苦労さま」~子と親と教師が、同じ目標に向けて力をあわせる小気味よさ

 中学校体育連盟体育大会◯◯市内大会、お疲れさまでした。

 壮行会のおり、入場してきた選手の一人が同じ側の手足を振り上げて行進しているのを見て、ちょっと心配になりました。
 しかしそれが、試合では見事な活躍です。運動能力に優れた子もそうでない子も、よくもまあそこまで強くなったものです。ほんとうに感心しました。

 私も若いころは相当夢中になって取り組み、休日が片端つぶれることにもまったく抵抗がありませんでした。子どもの成長が目に見えるのはとんでもなく楽しいことでしたし、指導者としての自分の成長にも手ごたえがありました。結果が順位として明確に表れるのも小気味よいことです。教師の仕事の多くは、数字として表現されるものではありませんから、とても魅力的だったのです。

 私たちは校内で様々な組織を動かします。「学級」はもっとも中心的な組織ですが、それ以外にも児童生徒会、学校行事では各係、職員組織としては学年会だの校務分掌の委員会など。しかしどの組織も部活ほどの集中力を作りだすのはなかなかできません。部活は最初から目的集団ですから、集中力を生み出すのも容易なのです。同じ目標に向かって突き進むことが前提の集団ですから、指示もよく通ります。

 ですから私たちはついつい部活に夢中になりがちです。しかしだからといって外部から「好きでやっていることだからいいなない」と言われたり、教員が部活で費やす時間やエネルギーを無視されたりするのは間違っています。また、教員の能力を学力面だけで測り、質の低下などと言われてもなりません。

 世界中のどこを探しても、国民体育の基礎を学校が支えている国はそうはありません。アスリートのレベルでいえば旧社会主義国のように国家が人材を選り出して専門の学校をつくるか、アメリカのようなクラブチームか、あるいは個人の力で能力を伸ばしていくしかないのです。ところが日本の場合は中学校の理科や数学や国語の専門家たちが、独力でスキルを高め、将来のアスリートを育ててくれます。そのことはもっと認められ、讃えられなければなりません。しかしそれにしては、社会はあまりにも教員に対して冷淡です。

 けれど考えてみると、今の世の中で子どもと親と教師が同じ目標に向かって全力を傾けることなどそうはありません(受験もそれに近いですが、しばしば子ども本人が乗ってこない)。そう考えると、日本の教師は大変ではありますが幸せな存在でもあります。