カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「困難と向き合う人たち」〜オリンピック開会式のテレビ中継を見ながら

 リオデジャネイロ・オリンピックが始まりました。
 歩道橋など建築を諦めてしまった施設もあるみたいですがとにかくスタートできましたし、入場行進で一カ国だけ殿堂の自転車がないといったハプニングもあったみたいですが、一応つつがなく始められたようです。
 考えてみると、もしかしたら運営委員全員の命すらかかっていたかもしれないソチ・オリンピックでさえ五輪の花が開かないというミスがあったのですから、万事おおらかなブラジル人があそこまでやったのはむしろ立派なのかもしれません。
 17日間、今度は競技を楽しみましょう。

 ところで、横になって手枕で開会式を見ている最中、突然、妻が私の顔を覗き込んで、
「あら、どうしたの? 泣いてるの?」
 妻がテーブルに布地を広げ、何か制作活動に勤しんでこちらに気がつかないと思い込んでいたので、私も油断していました。実は不覚にも涙を流しかけていたのです。それは今回初めて制定された「オリンピック名誉賞」の紹介のときです。

 新設の名誉賞の栄えある第一回受賞者は、キプチョゲ・ケイノという名のケニアの元陸上競技選手です。
 1968年のメキシコオリンピック陸上1,500m、5,000mでそれぞれ金銀を獲得、続く1972年のミュンヘンオリンピックでは3,000m障害と1,500mで金銀のメダルを獲得したケニアの英雄です。彼の活躍があって初めてケニア陸上の勃興があったといいます。
 そのケイノは引退後、妻と一緒に孤児院を運営し、初等中等の教育機関とトレーニングセンターをつくってケニアの子どもたちの健全な育成に貢献しています。それが今回の受賞理由でした。
 オリンピックでメダルを取るだけでも大きな事業です。しかも当時のケニアのようにスポーツ施設のほとんどないところから出てくるのは、ほんとうに容易なことではなかったでしょう。その上、祖国の英雄となっても驕らず高ぶらず、身を持ち崩すこともなく慈善事業に打ち込んでいく、それも稀有なことです。事業が今日も続いているところをみると、経営手腕も人を動かす力もあったのでしょう。こういう人の業績を見るのは少々つらいものがあります。
 若いころなら「かくあろう」「かくありたい」と思うところですが、私のような歳になるとわが身を振り返って「なんと意味の少ない人生を送ってしまったのか」と卑屈な気分が引き起こされてしまうからです。
 私だってそんなに悪い人生を送ってきたわけではない。しかし比べるとやはり見劣りしてしまう。それで少し傷つくわけです。ただし泣きそうになったのはそのためではなく、別の理由がありました。

 実はキプチョゲ・ケイノのVTRが流れる直前、バッハ会長のつまらない(というか、同時通訳がさっぱりうまく行かない)演説を聞きながら、ある女性のブログを読んでいたのです。
「ADHD、愛着障害のある娘。〜産んだ覚えはございませんが」
 タイトルが悪すぎて「愛着障害の子なんて産んだ覚えはない」と受け取られかねませんがそうではなく、シングルマザーである妹が癌で急死し、姉として引き取ったその“娘”がADHD乃至は愛着障害なのです。
 ADHD愛着障害は並び立つのか(どちらか一方でいいし、一方にすることには意味がある)という問題はありますが、それよりも重要なのは衝動性が強く人の心を解さない子どもを、わが子として育てることがどれほど大変か、思い知らされることです。ほんとうに大変なのです。

 シェリナナと名乗るブログ主には夫と犬がいて、それまでふたりと一匹で幸せな暮らしをしていました。そこに大変な子が飛び込んできたわけですから当然関係はぎくしゃくします。まず夫と娘の関係が絶望的なまでに冷えます。丸三か月、まったく口をきかない日々が続きます。
 悪い夫ではありません。“娘”との対応でうつ病の診断が出るほどですからまじめで誠実な人なのでしょう(現在は寛解)。記事を読んでいくとまるで神様のような人とも思えます。その夫と“娘”の間を、女性と犬が必死に取り持ってきたのです。
 後から考えると地獄のようだったその日々も、今よりずっとマシだったのかもしれません。やがて“娘”は成長し、夫も回復して“娘”との関係も改善しますが、そのころになって思ってもみないできことが起きます(ちょうどそのころ犬が突然この世を去ったことも関係するかもしれません)。それはジョリナナ自身の気持ちが切れてしまったことです。ブログのサブタイトルに「子どもを手放してしまいたい」という言葉が書かれ、それが今日まで19回のシリーズとなって続いているのです。
 これといって決定的な事件があったわけではありません。それまで幾度となく乗り越えてきたような小さなできごとが起こっただけです。そして“娘”が耐えられなくなった、耐えられなくなっていることに決定的に気づいてしまった、そういうことです。
 ひとまず故郷の街(震災後の熊本)に避難し、心を冷やし、再び東京の家に戻るのですが何も変わっていません。現在は毎晩プチ家出をすることで凌いでいますが、いつまでも続けるわけにはいかないでしょう。
 逃げ道がないわけではありません。「もう限界です」と言えば施設に預けられる道筋ははっきりしています。けれど自分が死んで亡き母や妹と出会ったとき、合わせる顔がないと彼女は嘆きます。“娘”と暮らした壮絶な日々、巻きこんでしまった夫や周辺の人々を思うと、ここでやめるわけにはいかないという気持ちもあるのかもしれません。
 今、彼女は危機にあります。

 キプチョゲ・ケイノとシェリナナ、ふたりを比べることはできません。二人とも自己犠牲の道を選び、ひとりは今日世界の中で評価され、ひとりは今日絶望に近いところで彷徨しています。しかし条件が違いすぎますからどちらがどうということも言えないでしょう。
 テレビとネットのこちら側では私が腕枕で「暑い」「暑い」とブー垂れながらに二つの画面(テレビとスマホ)を交互に見ています。
 私が本当にやりたかったのはシェリナナのような人を救う仕事だったと、半分眠りながら思っていたのです。少し涙を浮かべて。