カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「私が詐欺師だったころ」3〜マイ・レジューム⑥


 社名が三つ教室名が三種ですから切り盛りするのはかなり厄介です。本社は早速移転して間口の狭いのっぽビルの三階分を借り切ります。各階に別の看板を掲げ、その間を社長が行ったり来たりするわけです。
 電話を取る際も、今、自分が何階の何という社名の場所にいるか意識していないと対応を誤ります。

 教材も大変です。傘下のA教室を辞めて(名前は違うが実は)同じ傘下のB教室へ移る生徒もいたりするので、同じ塾だとばれないように教材の体裁ぐらいは変えなければなりません。私にはそれが大きな負担になります。
 特に夏期講習など大部の教材を発送しなければならない時期など、毎日2〜3時間といった睡眠で原稿を作らされます。今一部の学習塾はブラック企業として取りざたされますが、当時も似たようなものだったのです。

 睡眠不足も長く続くと自分自身わけのわからない文章を書いたりします。私の生涯の三大珍問はこのころつくられたものです。

(1)「お団子が12個あります。お皿が4枚あります。みな同じように分けるとすると、お皿は何枚必要でしょうか」(4枚。だって書いてあるもん!)
(2)「よし子さんの年れいは12歳です。お母さんの年はよし子さんの3倍です。お父さんは何歳でしょう」(分かるかい!)

 第三の珍問に至っては日本語の体すらなしていなかったようで、原稿通りに打つのが仕事の印刷屋さんですら空欄のままゲラを返してきました。 しかし本当につらかったのは仕事の過酷さではありませんでした。組織が腐り始めると、内部の人間も腐りだしたのです。

 最初は中堅社員の不倫です。不倫自体はバレなければよいようなものですが、本人が新婚であるにもかかわらずパートで来ていたこちらも新婚の女性と駆け落ちしてしまい、仕事に穴が開くと同時に相手の夫が乗り込んできたりして大騒ぎになります。
 続いて教務部のナンバー2である副院長がいなくなります。直営教室の保護者から借りた数十万円の金が返せずに出奔するのです。この人は元教員で、学校でも公金に手を付けて懲戒免職になった過去を持っています(そのことは後で知りました)。競艇がすべての元凶です。
 その副院長の不正を苛烈なまでに追求した副社長が、実は会社の金を大量に使い込んでいたとわかったとき、私の気持ちは折れました。

 汚い会社でしたが一部の社員とは仲間意識もあったのです。なんとか会社を軌道に乗せ曲がりなりにも普通のサラリーマンとして生きていこうという思いもありました。
 その仲間に裏切られたのでは生きていけません。

 私は会社を辞めて田舎に戻ることを考えます。幸い教員免許状を持っていたので採用試験を受けるのですが、受験勉強など全くできない状況では合格するはずもありません。
 30歳で東京を投げ出し、何の目算もなく私は故郷に帰ります。30歳でプータロウになったわけです。

 近所の子どもに声をかけて勉強を教えながら、当時の年齢制限で最後の採用試験を受けようとしました。試験に受かれば教師に、だめだったら田舎で細々と誠実な塾経営者になろうと思いました。一人分の食い扶持を稼ぐなら、経営者として真面目にやる方がいいに決まっています。

                              (この稿、続く)