カイト・カフェ

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「夢追い人」〜マイ・レジューム③

  1975年は日本にとってひとつのエポック・メイキングです。
 電気冷蔵庫・洗濯機・掃除機といった基本的な家電の普及率がほぼ現在の水準に高まり、高校進学率も上限にたどり着きます。また大学進学率もこの年にいったんピークとなって翌年から少しずつ下がり始めます(1985年ごろ反転、現在に至る)。

 もう一つ注目すべきは、年間50日以上の欠席児童生徒数が75年に底を打ち、この時期から増加に転じて以後うなぎ上りに上昇を続けたことです。いわゆる不登校(当初は登校拒否)の始まりです。75年まで減り続けた貧困や家庭不全による長期欠席に代わり、神経症的な不登校が増え始めたのです。そしてもうひとつ、“荒れる学校”の問題がこれに重なります。

 今も“学校の荒れ”はしばしば問題になりますが、当時の荒れ方は半端ではありませんでした。私が教育実習を受けた中学校などは男子便所の小便器が次々と破壊され、個室のドアも壊されてしまうので用を足すのに校内のあちこちを探さなければならない始末です。実習中も生徒指導の先生が走り回っているかと思ったら校舎の壁にスプレーで大きな落書きがされていて、悪口を書かれた先生が呆然として見上げているといった有様です。
「荒れる学校」がマスコミ上で問題となるのは70年代の末期ですが、75年までさかのぼって見る必要があります。

 図式的に言えば物質的豊かさを求める情熱がひと段落した時期、子どもたちの一部は学校から逃避し一部は学校を破壊し始めたということになります。
 そうした状況のもとで、都会では親たちが子を私立学校へ避難させ始めます。東京では学校群制度が始まっており、都立高校の凋落・私立の勃興は明らかになりつつあったという背景もあります。田舎でも一部の親たちは、せめてわが子の学力だけは守ろうと躍起になります。
 そして空前の学習塾ブームが起こったのです。

 私はそうした学習塾でアルバイトをしていましたが、そんな学生の目にも学習塾の成長は明らかで、フランチャイズの教室が次々と開講していくのです、そのスピードが半端ではない。毎月5教室くらいのペースででんどん増えていく、不況下ではありましたが、塾産業が当時もっとも成長の見込まれる分野と目されたのはそのためです。

 大学4年の秋、私のアルバイト先の会社が分裂します。経営方針に不満を持った一部の社員が5教室ほどのオーナーの賛同を得て別会社を設立したのです。そして分離の際には本社に属さない教室付きの講師が必要になりますので何人かに声をかける、そのうちの一人が私でした。就活に困っていた時期なので渡りに船でした。
 もちろん“夢追い人”にとって塾講師が目標にかなうものだったわけではありません。しかしとりあえず食っていかなければなりませんし、短時間に高収入の得られる講師は他に試してみたいことのたくさんある私にはうってつけだったのです。
 ただし新会社は驚くほどうまくいきました。わずか5教室からスタートして2年の間に26教室に増やし、それにつれて企業収入も爆発的に増えていきます。


 教室が増え児童生徒が増加すると教材の供給も爆発的に増え、本来は講師として勤めていた私も教材開発や発送の手伝いをしなくてはならなくなります。収入も増えましたが就労時間も飛躍的に増え、自由な時間は失われていきますが、その頃になると私は自分の“見果てぬ夢”などどうでもいいような気になってきました。この会社で仲間と共に働いていれば、もしかしたら3〜4年後にはマンションを購入し、外車を乗り回しているような生活をしているのかもしれない、そんなふうに思えてきたからです。
 それはそれで案外悪いことではないのかもしれない・・・若く、世間知のない“夢追い人”はそんなふうに軌道修正を始めました。 

                               (この稿、続く)