「いのちのこと」12〜それから

 退院してのちも、細かな問題はたくさんありました。
 母親も赤ん坊も初心者なのでなかなかうまく乳首をふくませることができず、難渋した時期もあります。
 左の乳房からの母乳の出が悪く、しかもシコリがあるので外科に見てもらったら「大丈夫、癌はありません」という結果が出て唖然としたことがありました。そういう方向の検査だとは思っていなかったからです。

 家の奥の部屋で授乳していたかと思ったらハーヴが火の付いたような泣き声を上げ、どうしたのかと立ち尽くしていると赤ん坊を抱いたシーナが目に涙をいっぱいため、
「どうしよう、ハーヴを落としちゃった」
――聞くと、乳房を替えるためにハーヴを持ち替えようとしたら膝から滑り落してしまったというのです。その高さおよそ15センチ。しかも膝から滑り落ちただけです。
「そんなことでは死なないよ。大丈夫」
 そういうとウンウンと頷いてようやく納得します。

 職場にいきなり電話がかかってきて涙声で、
「飲んだオッパイを噴き出した。だらだらでなく噴水のように噴いた」
 こればかりは私には分からないので近くの同僚に聞くと、
「よくありますよ。噴水みたいに全部出してしまうこと。赤ちゃんの様子を見て本人が元気なら大丈夫」
 そのまま伝えると機嫌よく遊んでいると言って安心します。ネット情報も大切ですが生身のベテランの言葉は、ずっと説得力があるみたいです。

 退院から4日目の土曜日、街に用事のあった私は娘を誘います。シーナはもう2週間以上も外に出られず、鬱々としていましたから喜んでついてきました。新米パパのエージュにとっても、ハーヴの面倒をひとりでみる絶好の練習機会になります。

 簡単な買い物をして本屋を覗き、スター・バックスのコーヒーを飲んでシーナはさらに元気を取り戻しました。その帰りの車の中で。
「お父さん、今まで誰にも言わずに一人で考えてきたことなんだけど、お父さんには言っておくね。
 ハーヴを産むとき、私、4回いきんで5回目に生むことができたの。看護師さんからも上手い上手いと言われながら――でも、あとから考えると4回目のときにもう少しがんばれたかもしれない。あの時もうひとつがんばってハーヴを生んでいたら、あんなことにならなかったのかもしれない――それがひとつ。
 もうひとつは研修生を分娩室に入れる同意書にサインしたこと。あの研修生さんはずっとそばにいてくれて信頼していた人だったけど、初産のお産に立ち会うのは初めてだった。だから何か上手くいかないことがあったのかもしれない。それが二つ目。
 三つめは日曜日に私の不注意で、ベッドに上がるとき破水してしまったこと。あの時もっと注意していたら、そういうことにならなかったのかもしれない。
 今はいいけど、将来もしハーヴに障害が残ったら、そのことを思い出して自分を責めるかもしれない」

 私は少し考えてから、こう話しました。
「父は今まで学級担任や教科担任を含めて5千人くらいの子どもを見てきたけど、シーナはその中でも十本の指に入るような頑張り屋さんだ。その頑張り屋さんに『4回目にもう少しがんばれたら』と言われても果たしてそうだろうか。
 たぶんシーナは1回目も2回目も、3回目も4回目も自分の精一杯でがんばった、だから5回目で産み落とすことができた、きっとそうだと思うよ。あれほど生まれにくかった赤ん坊だ、ほかのお母さんだったら5回で生まれてくるなんて、できなかったかもしれない。
 破水のことだって注意不足だったわけじゃない。
 表面張力でようやく保っていたコップの水は、ほんのわずかな振動でこぼれてしまう。注意しても仕切れないことはいくらでもあるよ。
 研修生のことは、それはいいことだから神様が認めてくれないわけはない」

「父の職場でシーナの出産のことを話したらね、同僚の先生たちが『大丈夫よ』とか『心配ないわよ』とか励ましてくれたんだ。でもそれって根拠がないよね。
 根拠がないけどその『根拠のない励まし』って、とてもすてきだと思うんだ。だって障害が残るかもしれないってことも根拠のない不安だろ?何を考えても根拠のない話だとしたら、『根拠のない励まし』に身をゆだねておけばいい」

「仮に障害があったとしても、それが出産時の事故によるものかどうかは誰にも分からない。もともとそういった因子を持って生まれたのかもしれない。障害があるから不幸だというのも理由のない話だ。シーナだって『愛がすべて』と言ったじゃないか。
 さらに言えば、障害のない子がすべて順調に育つとは限らない。この間、危険ドラッグを吸って交通事故を起こし、3人もの人を殺してしまった子がいたよね。あの子だってたぶん20年前は健康な赤ちゃんだった。健康の生まれることと幸せになることは必ずしも一緒じゃない。それは何の保障にもならない。
 ハーヴはシーナとエージュの家に生まれた子だ。前にも言ったけど、それだけでハーヴは幸せの保障された子だ。それで十分だと父は思うけどね」
 シーナは「そうだね」と言って黙りました。
「そうだね」はシーナの口癖の中で、私がもっとも好きなものです。

                             (この稿、続く)