愛着障害に関するミニ講演会に主催者側として参加し、「お礼のあいさつ」というのをやらされてきたので紹介します。短い話です。
◯◯先生、本日はたいへん貴重なお話をありがとうございました。学んだことと感想を簡単に述べさせていただき、お礼のあいさつとしたいと思います。
私は以前、ある本の中でこんな言葉を読んだことがあります。
「もはやどこの大学を卒業したかで人生の決まる時代は終わった。これからは“どこに家に生まれたか”が決め手になる」
身もふたもない話ですよね。
文章の前後に記憶がないのでどんな話だったのか思い出せないのですが、もしかしたら「資産を有するうちに生まれたのと無資産の家に生まれたのでは全く異なる人生が用意されている」と話だったのかもしれませんし「教養のある家庭とそうでない家庭のどちらに生まれるかは、人生の決定要因である」といった話だったのかもしれません。
しかし私は「家庭の雰囲気、家庭のしきたり、あるいは価値観や習慣、すべてひっくるめて『現代の家柄(人柄の「柄」と同じ意味での家柄)』と言っていいようなものがその子の人生を決めるのだ」と、そういう解釈をしてこれまで何度も口にしてきました。
けれど今日、先生のお話をうかがって、概念をずっと狭め、愛情に満ちあふれ愛着形成の十分にできる家庭に生まれるのと、そうでない――たとえば虐待の家に生まれるのとでは、ほんとうに人生が違ってくる、まったく正反対の長い長い人生が続くのだと、改めて思い心ふるわせたわけです。
けれど親の方だって気の毒かもしれません。
中にはそのつもりもなかったのに親になってしまった人だっています。
子どもが好きで好きでしょうがないと思っていたのに産んでみたら実は違っていた、まったく好きでなかった、子どもがこんなものだと思っても見なかったという人だっているでしょう。
愛情が十分にあり溢れんばかりの想いもあるのに、表現がまるでうまくない人もいます。素直にストレートな表現をすればいいのに、いちいち変化球にしてしまったり隠し玉にしてしまったり、さっぱりうまく行かないのです。子どものころから人間関係がうまく行かず、恋愛においても苦労ばかりしてきたような人たちです。
そうした親たちに、子育てがうまく行かないのは「親の愛情不足ですね」とか「愛着形成に問題がありましたね」とか言っても気の毒なだけなのです。何の解決にもなりません。
しかし子どもをそのままにしておくわけにはいかない。最終的な困難はその子自身が長い時間をかけて背負い続けなければならないからです。だとしたらどうしたら良いのでしょう?
そこで閃いたことがあります。
親にできなければ私たちがやるしかないということです。
そんなことは親の責任でしょ、私たちのやることじゃない、と言ってはいけません。なぜならあの親がそれをできないから、その子はああなのです。どんなに怒ったってどんなに追及したって、できない人にはできないのです。
親がやれば100点なのに、他人の私たちでは50点も取れない――たしかにその通りです。しかしその50点もないとしたら、あの子たちの今後数十年はまったくの闇です。
お話によれば、愛着形成はなかなか男性に不向きだということですが、私も、子どもたちから「『大好きな〇○さん』『大好きな〇〇先生』が信頼するおじさんだから、この人、案外大丈夫かもしれない」そんなふうに思われるよう、そのくらいには努力して行きたいと思います。
本日は、まことにありがとうございました。