「目の前に広がる扇形の人生」~寄り添う①

 若い頃は、自分ができるかどうかは別として、世の中、努力さえすればなんでも可能だと思っていました。ところが年齢を重ねるにしたがって、次第にそうではないことが分かってきました。
 どんなに努力をしたところで私が100mを9秒9で走ることはないし、関取になって横綱まで昇進することはない。そんなことはもちろん分かっていましたが同じように、どんなに努力しても東大に合格することはなかったしプロのミュージシャンとして活躍することもなかった、ある時期からそんなふうに思えるようになってきたのです(「大人になるまでそんなことも分からなかったのか」と非難されれば甘んじて受けます)。

 東大に受かるような人はやはり頭がいい、少なくとも受験向きの頭脳とそれを支える持続力や集中力があります。ミュージシャンとして大成するような人はやはり何かを持っている、曲を聞いていると「オイ! 次の音はそこかい!?」と驚くような展開をしたり「ここでその言葉が浮かぶの?」とびっくりするような歌詞が続いたりします。一流の女優さんに街で会ったりすると、いかに鈍感な私でもいわゆる“オーラ”を感じたりします。彼らは最初から違うのです。
 しかし、だからといって彼らが必ずしも幸せとは限りませんから、今は羨ましいとも素晴らしいとも思いません。私は自分の人生にかなり満足しています。

“人には生まれながら持っているものがある”
 その意味で私は運命論者でもあります。私たちの前にはそれぞれ道筋があって、人間はその制約からは逃れられない、そう感じています。
 名前は分かりませんが“神様”も信じていて、大枠において信賞必罰は果たされると思っています。今、ずるいこと汚いことによって大いなる幸せを感じている人にも、必ず天網はかかりその人を捕えるという信仰です。
 しかし私の信じる“運命”はまったくガチガチの一本道ではなく、私の信じる“神様”もまったく融通の利かない存在というわけではありません。
 印象で言えば、運命の道筋は目の前に15度くらいの角度で開けた扇形の道筋で、「真ん中を歩け」という強い力は働くものの、努力次第で、たとえば左の縁(ふち)を歩くことも可能です。
 左の縁を歩き続けるとまた目の前に15度の道が開けますからまた左に寄って行く、すると結局、最初に見えた“左”よりも、ずっと深い“左”に切り込んで行ったことになります。そんなふうにゆっくりと時間をかけ、運命と折り合いをつけながら進んで行けば最初に見えた道筋とはかなり違う生き方ができる、そんなふうに思うのです。

 運命の道をいきなり直角に曲がろうとしても無理です。少し無茶をすれば曲がれたようにも見えますが、運命の道の両側は透明なゼリー状の物質でできているのです。受け入れると見せてやんわり押し出してしまいます。
 この道を切り開く方法はただひとつ、時間をたっぷりかけ、ゆっくりゆっくり押し返し続けることだけなのです。私はこのことを「運命に寄り添って生きる」と呼んでいます。

(この稿、続く)