「ある運命論者の弁」〜ひとの生き方と死に方 1

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グスタフ・クリムト 「死と生」)

 

 私はおそらくある種の運命論者です。

 

 運命論あるいは宿命論というのは、「世の中の出来事はすべて予め決定されていて人間の努力ではどうにもならない」とする考え方です。

 

 しかしこんなふうに文字にしてみるとちょっと違うなと思うのは、私の考える運命論は人生の細部までガチガチに決まっていて一片の変更もできないようなものではないからです。印象で言えば目の前に角度にして5度ほどの広がりがあり、その中で選択の余地があるといった感じです。

 

 もう少し詳しくお話ししましょう。

 

 

【運命の角度】

 卒業式の時などに言われる「キミたちの前には無限の可能性がある」は、角度にしてたぶん90度くらいの広がりだと思うのです。人生を“道”のように考えた時、目の前に360度の未来が広がっているというのは変でしょう? 後ろには行かないから。

 

 さりとて分度器のようなものが目の前にあるとして、0度の方向にも180度の方向にも行けませんよね。真横に歩く人生というのも変ですから。だから「無限の可能性」と言っても真正面を中心にして左右45度ずつ、計90度くらいの可能性だと考えるわけです。

 

 それに対して私の運命論は「左右2.5度ずつ、計5度くらいがせいぜいかな?」といったものです。もしかしたら5度でも広すぎて3度くらいなものかもしれません。それくらい幅が狭い。その中でしか生きられない。

 

 別の生き方をしようとしても必ずその枠の中に戻されてしまう、大きく逸れたつもりでもいつの間にか枠の中に納まっている、それが私の運命論です。

 

 ただし運命の左いっぱいで生きるのと、右いっぱいで生きるのとではだいぶ違います。人生は長いのですから5度(あるいは3度)の幅は甚大です。高速道路でも5度左にハンドルを切ったまま走り続けたら、すぐにガードレールにぶつかってしまいます。

 

 

【運命の分岐点】

 さらに、私の運命論にはもう一つの特徴があります。それは、

「人生にはたびたび運命を分ける分岐点があって、そのたびに何かを決めなければいけない、それは新しい5度が目の前に置かれることだ」

というものです。

 

 例えばあるとき目の前にあった5度の角度の左の限界ギリギリを歩いてきたとして、分岐点に差し掛かるとそこに新たな5度が現れます。そこでもう一度選び直すのです。

 もう一度舵を左いっぱいに切ると、2.5度左に向かっていた人生にさらに2.5度重ねるわけですからけっこう左に逸れ、当初とはずいぶん違った風景が見えるはずです。

 左ではなく、今度は思い切り舵を右に切っても以前の道に戻れるわけではありません。前の選択からずいぶん時がたっていますから容易に同じ方向には向かえないのです。

 

 分岐点はいつ現れるか分かりません。運命ですから。

 5年、10年と間をおいて現れるかと思えば、たった1時間の間に3回4回と重大な決断をしなくてはならないこともあります。人知の及ぶところではなく、努力で変えることもできません。決断を回避しても「回避した」という決断を下したことにさせられてしまいます。

 

 何か回りくどくて分からないかもしれませんね。

 

 

【ある運命論者の弁】

 要するに、

「人生にはいくつかの節目節目があってその時々に人間にできることはごくわずかでしかないが、そのわずかな積み重ねは大きな違いを生み出す」

と、これも文字にしてみるとあまりにも平凡な考え方です。

 

 

 なぜこんなことを言い出したのか。それはこの夏起きたある大きな出来事について、来週お話しするのに先触れをしておきたかったからです。

 

 

                             (この稿、続く)