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「格物致知(かくぶつちち)」~幸田露伴のお掃除

格物致知」というのは古代中国から現代に続く思想的な術語で、時代や人によって解釈が随分と異なる言葉です。

 三省堂の「新明解四字熟語辞典」には
 物事の道理や本質を深く追求し理解して、知識や学問を深め得ること。『大学』から出た語で、大きく分けて二説ある。宋の朱熹(しゅき)は出典を「知を致いたすは物に格いたるに在り」と読んで、自己の知識を最大に広めるには、それぞれの客観的な事物に即してその道理を極めることが先決であると解釈する。一方、明(みん)の王守仁(おうしゅじ:王陽明)は「知を致すは物を格ただすに在り」と読んで、生まれつき備わっている良知を明らかにして、天理を悟ることが、すなわち自己の意思が発現した日常の万事の善悪を正すことであると解釈している。他にも諸説ある
とあります。

 私がこの言葉を知ったのは、幸田文の随筆からです。幸田文の父である幸田露伴は、王陽明よりもさらに新しい清の顔元によってこの言葉を解釈していました。それは「格物」を「手を動かしてその事を実際に行う」とし、そうすることで後に「知は至る」、つまり実践によって知を獲得していくということです。

 露伴はかなり早い段階で文の才能に見切りをつけてしまい(そのあたりは結局、眼鏡違いでした)、この子は文学で生きられるはずもなく金儲けもできそうにない、だからよき妻となるしかなく掃除など家事全般を徹底的学ぶ必要があると考えました。そして母親のいない文のため、自分自身が家事全般を教えていこうとかなり厳しく躾けていくのです。その様子は幸田文の随筆に少し滑稽に描かれています。そしてその態度がまさに格物致知なのです。

 ただし格物致知を根幹とする教育というのは露伴一人のものではありません。西洋から経験主義が入ってくるはるか以前から、日本の教育は格物致知的なのです。
 たとえば古典芸能の世界では「形から入る」ということが大切にされ、ひとつひとつの所作の意味を二の四の言う前に、まず「形」をしっかりさせるための修行を続けさせます。絵画の世界も先人の名画を繰り返し繰り返し模写する中から、自分独自のものの発見が始まります。清掃やその他家事全般も、実際に手足を動かしてきちんと行う中から、その意味が知れてきます。

 日本の場合、学校教育の中にはさまざまに錯綜した格物致知の仕組みがあります。登山や修学旅行といった旅行的行事、音楽会や絵画展と行った学芸的行事、児童生徒会、部活動、清掃、それらはすべて実際に体を動かし、活動する中から課題を見つけ対処していこうというものです。そうした教育活動すべてを通して子どもの人格的な完成を目指す、それが日本の学校教育の在り方です。
 私はそうした学校のあり方に対して、現在の学校教育をつくりあげたはずの政府や文科省がなぜこうも無頓着でいられるのか不思議でたまりません。

 実際に手足を動かして問題が発生するのを待ち、その上で解決策を探りながら成長していくわけですから時間もエネルギーも膨大にかかります。しかしそれをやってきたからこそ現在の日本人が世界から尊敬される民族でいられるのです。

 そんなすばらしい日本の教育を無視して、道徳の教科書を充実させましょうといった矮小化された話にするから、教育はますます厄介なものになってしまいます。