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「仕事を減らさず、人も増やさず、時数を減らせば首は締まる」~今の働き方改革は教師を幸せにするのだろうか④

 どんな手段を使ってもいいから指導時数を削れ、 
 人間を育てる必要はない、知識・技能で十分だ。
 そう言われて素直でいられる教師がどれほどいるのか?
 働き方改革は下手をすると有能な教師の意志を挫く。
 という話。(写真:フォトAC)

文科省は教師に喧嘩を売るのか?】

 8月28日に出された中教審部会の「教師を取り巻く環境整備について緊急的に取り組むべき施策」に関する記事を見て、真っ先に腹を立てたのは、
 すべての学校の授業時数を点検し、特に標準授業時数を大幅に上回っている学校(年間1,086単位時間以上)は、見直すことを前提に点検を行い、指導体制に見合った計画に見直す。
という部分に対してでした。中教審の委員が言い出したことなら無知ですし、助言すべき文科官僚が思いついたことなら、明らかに喧嘩を売っているのです。

「オラ、オラ、オラ、忙しい、忙しいっつーたって要するに自分で勝手に忙しくしてるんじゃねえか。とりあえず指導要領の時数1015時間を上回る分については、減らしてから文句を言え」
という訳です。その超過分は(1086時間-1015時間)で71時間。1日5~6時間授業、1週は29時間という学校が多いですから、71時間はおよそ12日間、学校五日制のもとでは2・5週間にも当たる時数です。

【仕事を減らさず、人も増やさず、時数を減らせば首は締まる】

 しかし今さら文科省がこれを減らせと言うのは卑怯です。
 再三申し上げている通り、学習指導要領は最初から1100時間程度を予定しないと消化できないようにできているからです。
 特に特別活動は、入学式も卒業式も、運動会も音楽会も文化祭も、そのまた練習も、修学旅行も臨海学習も、音楽鑑賞も演劇鑑賞も、そして4月から5月にかけて延々と続くかのように見える健康診断も体力測定も予防接種も、清掃も給食もボランティア活動も、避難訓練も、いじめや校則問題を話し合うための学級会も――つまり学校で行われる教科教育・総合的な学習の時間・特別の教科道徳の三つを除くすべての教育活動を、たった35時間で行うように計画されているからです。
 
 もちろん35時間ではできっこない。できっこないから70年以上にも渡って誤魔化しながらも、35時間に近い形で収まるように報告してきたのです。文科省も標準時数を下回るのは困るが上回る分についてはかまわないといった立場でこれを見過ごしてきました。それを今ごろになって、行事を見直せ、極力減らせと言っても限度があります。
 
 1086時間は必要だから生まれた時間です。子どもがある程度余裕をもって育つためには、最低でもそれくらいないとうまくいかないと、経験則から編み出した数字です。指導要領の文言を見ながら、「う~ん、こんなもんかな」とやっつけた仕事ではありません。
 ゆとりというのは時間と人手がたっぷりあって仕事が少ない時に生まれるものです。それを仕事も減らさず人も増やさず、時数だけを強制的に削減すれば首が締まります。首が締まるのは教師だけではありません。特別活動の多くが縮小ないしは廃止となった学校で、子どもたちは何を成長の糧とし、何を楽しみに日々を過ごしたらいいのでしょう?


【日本人はどこで育てられているのか】

 特別活動は人間を人間に育て、日本人を日本人に練り上げる時間です。
 ひとたび災害が起これば指示に従って粛々と避難し、避難所ではそれぞれの役割をきちんと果たして子どもや高齢者を守る。列や順番を乱さない。
 日常にあっても衛生に心を配り、自分の出したゴミは家にもち帰るようにして公共の場所を汚さない。困っている人には親切にする。常に弱者をいたわる――そういった日本人の美質は特別活動で強化され維持されています。
 
 したがって特別活動の価値を信じる教師たちの目には、学校におけるすべての活動が、一般とは異なったふうに見えてきます。
 例えば、彼らにとって運動会で最も大切なのは高学年の係活動です。あるいは心理的一体感をもって仲間(クラスや紅白)を応援することです。
 修学旅行は人間形成の中間考査、実地試験のようなものであって、思い出づくりは付随的な目標でしかありません。最上級生になって、子どもたちは計画を立て計画を遂行できるような人間に育っているか、各人みずからの役割を理解し責任をきちんと果たすことができるか、譲り合い、扶け合って集団生活を送ることができるか、公共のマナーを守れるか、身の回りのことを一人できちんとできるか、そういったもろもろを実地で試して、うまくいかない部分は学校に戻ってから勉強しなおす、そういうものだと一部の教師は考えます。
 
 「学校清掃」は単なるハウス・クリーニングではなく、最も基本的で最も有効な修行法です。柔道・剣道をはじめとする武道や茶道・華道といった芸能、あるいは修験道神道・仏教など宗教の場で、最初に取り掛かって最後まで残るのが清掃です。幸田露伴は清掃を通じてモノと対話し、モノから本質を学ぶことを「格物致知(かくぶつちち)」と呼んで最重要視しました(2007-04-19「あとみよそわか」~露伴の教え)。
 学びの場における清掃にはとてつもなく深い意味があり、中教審の委員でもある某教育評論家*1のように、「意義があっても道徳の時間に少しやればよくない?毎日させる必要はない」(2023.08.28X)というわけにはいかないのです。
 
 日本の学校教育を特徴づけ、日本の学校教育で最も重要な特別活動の時間を安易に減らすのは、日本人に日本人をやめろと言うのと同じです。そして同時にそれは、人を育ってることを喜びとする教師に対して、「人間教育から手を引け」ということと同じです。

【「学校は人間教育から手を引け」でいいのか】

 もちろん躾や道徳的な分野から手を引けば学校は今よりずっと楽になります。しかし楽になれば教師は幸せか、教職は人気が出るのかというと、そんなことはないでしょう。
 今週初めに、私は「内容が減り、時数が減ったら社会科はまったく面白くなくなった」と話をしました。それと同じです。楽と楽しさ・面白さ・やりがいはまったく別なのです。
 働き方改革が教師の生きがいや意欲を踏みつぶしてしまったら、元も子もありません。負担を減らすなら、ほかにやりようはいくらでもあるじゃないですか。
(この稿、続く)