カイト・カフェ

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「不空羂索観音の話」~その宝冠と醸し出す幻想

 修学旅行のコースから東大寺三月堂が抜けていて、代わりに「東大寺ミュージアム」などという聞いたこともない施設が入っているのが内心不満でした。ところがこれは私の無知で、三月堂は現在改修中で拝観できず、内部の諸仏は「ミュージアム」に移されそこで展示されているのでした。

 ただし、やはり仏像はあるべきところにあるがよいのであって、やや照明はおとしているものの、近代的な建物の中ではなんとなく威厳がないなあと思って眺めていました。印象がまるで違うのです。

 そして振り返ってそこにあるものにちらっと眼をやり、行き過ぎようとしてあわてて立ち止まりました。私が一瞬目をやって通り過ぎようとしたものはとんでもないものだったのです。それは不空羂索観音の宝冠でした。仏像の印象が違うわけです。

 宝冠をそんな間近で見るのはそれが最初で最後でしょう。細工の細かさに目を見張ります。
 直径1mm程の水晶や翡翠のビーズが金メッキを施された銀の針金で無数につながっているのです。珠の数は大小合わせて1万数千個と表示されていました。
 これをつくった人とつくらせた人の想いが、ひとつに結晶しているような宝冠です。不空羂索観音の本体も、つぶさに見ればきっと多くの“想い”が見て取れるはずです。

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不空羂索観音の醸し出す幻想】

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 東大寺三月堂の不空羂索観音は、私が若いころから最も気になっている仏像の一つです。「ふくうけんじゃくかんのん」または「ふくうけんさくかんのん」と読みます。
「不空」とは「空しからず」ということ、「羂」は帯状の布、「索」はロープです。
「観音」は「勢至菩薩」とともに阿弥陀如来の横に立つ脇侍で、人間の悩みに合わせて三十三の姿に変身する「観音菩薩」のことを言います。不空羂索観音は私のように仏に救われることすら望まない、その意味では全く救いようのない者まで羂索でからめ取って極楽へ連れて行ってくれるありがたい菩薩様なのです。
 ただしこの「不空羂索観音」は三十三の化身の中にははいっておらず、「聖観音」「十一面観音」「千手観音」「馬頭観音」「如意輪観音」と並んで天台宗六観音に挙げられています。普通は一面三目八臂(額に縦に目が一つついている)につくられています。

 この仏像が「気になっている」理由の一つは、これが私の夢の中に出てきたことがあるからです。

 遠い奈良の東大寺から羂や索が無数の蛇のように動きながら山々を越えて伸びてくる。そして私の家の窓を破って私をとらえ、ぐるぐる巻きのミイラみたいにして三月堂まで引き寄せる。やがて観音が八本の腕でしっかと私を抱くと、突然天蓋がミサイルのサイロの蓋みたいに開いて、不空羂索観音は私を抱いたままロケットのように天空に舞い上がる、という夢です。

 ものすごく怖くて、いまだにその夢を見た夜のことを、ありありと思い出せます。
(その後、私が見たもう一つの恐ろしい夢は、興福寺の阿修羅像が八本の腕をばらばらに動かしながら近づき、そのまますべての腕で私をきつく抱きしめ、そのあまりの苦しさに目を開くと阿修羅の正面の顔の口が大きく開き、そこから二本の牙がのぞく、というものでした。私の若き日々は、妙な夢ばかり見る日々でした)