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「いっぱい教えて、たくさん練習させた」〜義務教育の留年制について③

 PISAの学力調査でフィンランドが世界一になったとき、さまざまな説明がフィンランド国内から発信されました。やれ教員が修士所有者だとか、よく本を読むからだとか・・・しかしその中で、もっとも愉快でその通りだと思ったのは「いっぱい教えて、たくさん練習させたから」というものでした。この件については改めて書きますが、後にフィンランドの小学校の教科書を見たら、その「いっぱい教えて、たくさん練習させた」の意味がとてもよく分かりました。

  東日本大震災の際に発信された大量の映像・画像の中に心に残るものはたくさんあるのですが、そのひとつは広い校庭の上に、給水車からのびる長い、長い、長〜い人の列です。それぞれバケツやらヤカンやらポリタンクやらをもって並んでいるのですが、最後の方の人が給水を受けるのは3時間後といった有様でした。近くのガソリンスタンドからはこれまた長〜い車列続いています。こちらの方は5時間待ちとか。しかし人々は並ぶのをやめません。

 そうした秩序ある態度に対して、日本人評論家の中には「国民の中に確固として残っていたDNA」などといったアホな論評をした人もいましたが、そんなDNAがあったらたまったものではありません。○○人の「けんかっ早いDNA」だの△△人の「グータラなDNA」などと言い出したら科学ではないからです。

 被災者たちが我慢して並び続けたのには二つの理由があります。 その第一は「待っていれば必ず公平な分配が行われる」という供給者にたいする信頼です。ワイロや縁故で横流ししているかもしれないと思ったら、とてもではありませんが3時間も待つことはできないでしょう。並ぶ時間があったらコネを探した方が圧倒的に確実です。

 もうひとつは「他のみんなもそうしている」という日本人全体に対する深い信頼です。「もしかしたらどこかでうまいことをやっているヤツがいるかもしれない、しかし大多数は自分と同じように愚直に並んでいる」、そう信じなければ、これまた並んでいることは耐えがたくなります。

 ところでそうした信頼に根拠はあるのでしょうか?―もちろんそんなものはありません。根拠はないのに信じられるのは、まさに私たちが「いっぱい教えて、たくさん練習させたから」です。保育園の時から義務教育を終えるまで、日本の子どもは何百回も並ばされ公平な分配を受けてきました。ですから並ぶことにも公平に扱われることにも“慣れている”のです。それが普通だと、信じ込まされ、事実“それが普通の社会”をつくりあげてきました。

 津波に町が破壊されつくした時、もとからあった町内会が機能したことはよく分かります。しかし横のつながりのなかったマンションの住人たちも、あっという間に自治組織をつくりあげてしまうのです。それも「いっぱい教えて、たくさん練習させたから」です。
「当番活動はしっかりしなさい」「係の仕事は掛け替えがないのです」「他人の仕事に出しゃばってはいけません、しかし義務を果たさないこともいけません」。こうしたことは日常の当番活動から文化祭の係、修学旅行の係活動などを通して何百回も練習し続けたことです。だからいざという時も、困らないのです。

 しかしこうしたこともやがて失われています。

 橋下市長たちは暗に言います。「そんなことDNAに刷り込まれてるのだから改めて訓練する必要ないじゃないか。いま本当に大切なのは学力なんだよ。それがすべてさ」

 世界を感嘆させた日本人の態度というのも阪神・淡路、東日本までで終わりかもしれません。何十年後かの次の災害では、四川・ニューオーリンズ・ハイチ・日本と並び称されるに違いありません。そのときはせめて、学力だけは世界一であってほしいものです。

(以上、もちろん皮肉です)