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「基本的制度改革で失ったもの」~義務教育の留年制について②

 先週金曜日に申し上げたように、橋下市長は喧嘩上手で言ったことを100%その通りにしようとは必ずしも思っていません。しかし義務教育の留年制度は禁断の果実ですから、いったんたしょうとも手をつければ、あとには戻れないものです。これに口をつければ私たちの子孫は「日本」という楽園を終われることになります。

 東日本大震災で見せた見事な統制や支えあい、いやそれ以前から評価の高かった町の清潔さや寸分狂わない交通システム、常に誠実であろうとする態度や「おもてなし」といった文化は、学校が膨大な特別活動(学級活動や学校行事)によって支えてきたものです。

 学校に留年制度を導入するということはそうした道徳教育の母体を崩すということです。
 もちろん“学級”は捨ててもいい、「道徳」は別の組織が請け負う、フィンランドや諸外国がそうであるように、学校は“学力”だけに責任を持てばいい、そういった覚悟があれば別です。しかし学校から根こそぎ「道徳」のシステム(学級)を奪っておいて、あとから「ところで道徳教育はどうなっているの」と追及されてはかないません。

 別件みたいですが、かつて「学校の自由選択制」が全国に広まったとき、これが地域社会を壊すものだという点に誰も触れなかったことを私は不思議に思いました。

「地域」はこれまで一貫して“隣組”と“学校”が支えてきました。「ご近所」の煩わしさをできるだけ逃れようとしてきた人も、学校のPTAや地区行事を通して強制的に「地域」に組み入れられ、人間関係をつくらされてきたのです。そうして活動するうちに、「地域」の良さも分かってきます。

 それが選択制によって「子どもはどこの学校に行ってもいい」ということになると、少なくとも地域の子ども行事には参加しなくて済みます。親は地域のしがらみから完全に自由になり、子どもの行事そのもののも次第に消えていきます。そんなことは最初から分かっていたことです。

 今ごろになってあちこちの地域から「学校の自由選択制を見直してほしいと」か「安易に区域外通学を認めないでほしい」とかいった要望が頻出し、「選択制」は岐路に立たされているといいますが、最初から地域社会の破壊を承知で始めたことです。いまさらやりなおしてみても取り返しはつかないでしょう。

「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」という橋下市長の論はごもっともです。しかしそれは40人の子どもを一人の教師が見るという現行の制度だから難しいのであって、児童・生徒を20人に減らせば、あるいはひとクラスを複数の教員で見て必要に応じて外に取り出し個別学習をすればそれだけで済むことです。つまり金の問題であって、留年制といった危険な賭けをせずとも果たせるのです。

 学校という組織は非常に有機的な存在で、人間の身体と同じように、どこかをいじれば別のどこかに必ず深刻な影響を及ぼします。その副作用まで十分に見極めないと、本当は手を出してはいけないことがたくさんあります。

*もう一回続けます。