カイト・カフェ

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「子育てをサルに学ぶ」~川の字で寝ることの是非

 子どもを挟んで寝ることを「川の字に寝る」と言いますが、この表現がどこから来たのかははっきりしています。

子ができて 川の字なりに 寝る夫婦 (柄井川柳

「俳風柳多留」という本の中にあるそうです。川柳の作品の中には赤ん坊を詠んだものがいくつかあり、「おい女房 乳を飲ませに 化けて来い」などは泣かせます。

「取揚婆(とりあげばば) 屏風を出ると 取り巻かれ」

 生まれたばかりの赤ん坊を抱いて屏風の向こうからお産婆さんが出てくると、家族や親戚がわっと周りに集まる、そんな微笑ましい情景が浮かびます。

 さて、元に戻って「川の字に寝る」です。果たして世界の民族のうち、どれほどがこうした形で夜を過ごしているのでしょう。案外多いような、そうでないような気もします。

 私が知っているのはアメリカの赤ん坊たちで、これは相当に早い段階で一人寝をさせられてしまいます。なんと言っても個人主義のお国柄ですから、わが子とは言え、夫婦のナイトライフを邪魔されるのはかなわないのです。
 しかし表向きは「子どもの自立を促すために」ということになっていて、日本でも二十年ほど前、こうしたアメリカのやり方を見習おうという動きがあったりもしました。ちょうど私が子育てを始めた時期です。しかし私はそうした流れに乗りませんでした。
 どういう子育てが良いのかということについて、確信的な言い方をする人がいたら眉に唾をつけて聞かねばなりません。私もしばしば確信的な言い方をしますが、これも信念であって実証的なものではないからです。

 子育てを本当に実証しようとしたら遺伝的要素に差のない一卵性双生児をたくさん用意して、Aの子育てとBの子育てを別々に実施し、片方がうまく行って片方が失敗するのを待たなければなりません。しかしそんなことはできないでしょう。また、ある人の子育てがうまくいったからといって、その人のやった何がどの程度良かったかなどということは分かるはずもありません。子育ての要素は非常に多岐にわたり複雑なのです。

 では、私たちは何をたよりに子育てをしたら良いのか。
 私の場合、伝統的な古いやり方と新しい方法が背反したら、基本的に古いやり方のほうを信頼することにしていました。なんと言っても実績がありますから。

 それからもうひとつ。「この場合サルだったらどうするか」というのも判断の材料のひとつでした。例えば寒い冬、赤ん坊を抱っこして包んで、人肌で暖められる状態ならそれ以上の保温用具は要らない―サルは使っていないから―といったようなことです。
 では同じ文脈で考えて、サルの家族は夜、どんな寝方をするのか―私の知る限りサルの家族は寄り添って寝ています。いつまでそうしているかというと、子ザルが大きくなって自分から親元を離れるまでそうしています。そしてサルがそうである以上、私たちも川の字で寝るのが正しい寝方だ、そんなふうに思っていました。子が安心して親元を離れるまで、いつまでもそばにおいていいのです。
 時おり母親のスカートの端をしっかりと握り締めて離れない子がいます。周りの人は「おやおや、お母さんが好きなのね」などと微笑ましく言ったりもしますが、そうではありません。その子は不安で親元を離れられないのです。
 不登校の子の一部も同じです。彼らは学校が嫌なのでなく、家庭に大きな不安を抱えていてとても学校へなど行っている余裕がありません。

 どんなことがあっても親は自分を見放さない、自分には帰るところがあると肌で感じている子は、どんどん外に行って元気良く遊んできます。