カイト・カフェ

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「12月8日」~破滅への第一歩を記した日、今も変わらないこと

 今日、12月8日太平洋戦争の開戦記念日(1941年)で、力道山が刺された日(1963年。亡くなったのは15日)で、ジョン・レノンが暗殺された日(1980年)です。

 8月15日の終戦記念日は多くの人に記憶されていますが、開戦記念日の方は忘れられがちです。しかしここから足掛け5年、実質的には3年9ヶ月ほどの太平洋戦争が始まったのです。

 終わってみれば日本は軍艦も航空機もほとんど失った状態だったのに対し、合衆国は軍艦も航空機も開戦時より多く残ったという圧倒的な工業力の差。なんでそんな国を相手にアホな戦いをしたのか、ということになりますが、明治以来、清国・ロシアという巨大国家と二度も戦い二度とも勝った(表向きは)という経験は、日本人の記憶に強烈な優越意識とともに焼きついていたのかもしれません。近年にいたってもあのベトナムが合衆国を蹴散らし、アフガニスタンソ連軍を押し返したことを考えれば、単にアホな人たちのアホな戦争とは言っていられない状況があります。

 しかしそうは言ってもこの戦いのあちこちには、ほんとうにやりきれない状況があり、すべきではなかったという状況には変わりはありません。
  私は大学の卒業論文が日米開戦時の政策決定でしたので、このことには深い思い入れがあります。

 たとえば有名なガダルカナルの戦いでは、軍は兵を小出しに出しては最終的に2万5千人もの兵を死なせてしまいます。弾薬も底を突いてしまい、最後の突撃には弾丸が1個しか支給されなかった部隊もあったといいます。
 夜陰に乗じて限りなく敵に近づき、相手が気がついたら一発撃って突撃する。するとアメリカ兵は臆病だから背中を見せて逃げるに違いない。そこを背後から襲って銃剣で突き刺す――それが作戦でした。

 この作戦、実は半分までは正しいものだったのです。
 実際アメリカ兵は臆病でしたから、いきなり襲われると闇雲に草むらに向かって機関銃を撃ちまくったのです。
 これではひとたまりもありません。結局散り散りになってジャングルに逃げ込むのですが、そこにもアメリカ兵のパトロールがやってくる。そして風に揺れたのか草木がガサッと音を立てると“臆病なアメリカ兵”はとんでもない量の銃撃を草むらに浴びせかけるのです。遠くからのぞいていた敗残日本兵は「オレもあんなふうに銃を撃ってみたいものだ」と心から思ったといいます。日本兵だって怖かったのですから。

 それから60年以上もたったというのに、日本政府は本質的に何も変わっていません。教育改革だって大量の予算を使って一気にやれば何らかの効果もあるかもしれないのに、小出しにわけのわからない政策を出すので現場は混乱するばかりです。結局あれもこれもうまく行かないので、最後はマン・パワーに頼るしかなく、教員の(兵の)根性と鍛錬によってこの難局を乗り切ろうとします(ほんとうに難局かどうかはべつにして)。免許更新制をはじめとして、教師を叩けば何とかなると思うのは、兵士を叩いて何とかしようとした、あの時代とまったく同じだということです。

 私たちも玉砕しないように何らかの手を打たなければなりません。私たち(少なくとも私)が死ぬのなんか、かまいません。問題は私たちが全滅したら誰が子どもの教育を司るか、ということです。