1996年11月東京都文京区で、父親が家庭内暴力の息子(当時中学校三年生)を金属バットで殴り殺すという事件がありました。当時もそれほど珍しい事件ではなかったのですが、このときはその父親が東大卒であったことから特に注目される事件となったのです。
4年後、この事件は「うちのお父さんは優しい検証◎金属バット殺人事件」(鳥越俊太郎・後藤和夫著明窓社 2000)というルポルタージュにまとめられますが、中にこんな場面があります。
(暴力の辛さに耐えかねて相談に行ったカウンセリングクリニックで)
言ってみれば、奴隷のようにこき使われるのが耐えがたい」と訴えたら、先生は「そういうことも一つの技術です。お父さん頑張ってください」と言いました。私は、「ああ、これも一つの技術なんだ」とストンと胸の中に落ちてきて、ホッとしました。
加害者(父親)は、これで完全に息子の暴力から逃れられなくなってしまいます。私は、こうした「(受け入れることも)ひとつの技術だ」という言い方に激しく反応し、憎しみます。こういったいかにもそれらしく、しかし実は曖昧で危険な言葉というものは、教育の世界にいくらでも転がっています。そしてそのためにたくさんの子と親が犠牲になってきたからです。
たとえばいま例に挙げた「子どもを受け入れる」。
暴力を受け入れてはいけないなどということは、誰にでも分かりそうなことです。しかし家庭内暴力の子どもについて「受け入れろ」といわれたら、それ以外にとるべき道はほとんどなくなります。
あるいは「子どもを信じろ」。
子どもが刑事事件を起こして警察に呼ばれ、「親としてしっかり見ていたのですか?」と問われ、「子どもを信じていました」と言ったら笑いものでしょう。しかし多くの(教育の)専門家は「子どもを信じろ」と言います。それならどう信じたらよいのか。これについて語る専門家はほとんどいません。
さらに「そのままのお前でいいと伝えてあげる」
しかし誰が見ても「そのままでいい子ども」なんて、ほとんどいません。
「過保護ではいけません」「過干渉もいけません」「放任もいけません」。しかしその微妙な差について語る人はほとんどいません。
「愛情不足でしょう」。そんなふうに言われたら立つ瀬もありません。おまけに愛情不足と言ったあとで具体的な愛情の注ぎ方を教えてくれる人も、ほとんどいないのです。
私たち実践者の、重要な仕事のひとつは、こうした無責任な専門家たちの、抽象的な言葉をいちいち翻訳して現実に当てはめることです。「受け入れる」とは具体的にどうすることか、「そのままでいい」とは何か、子どもを信じると言うのはどういうことなのか、一つひとつ吟味し解説していく必要がありそうです。