「独我論の世界」

 哲学上の考え方のひとつに独我論というものがあります。観念論の極端な形ですが、簡単に言ってしまうと「世界は『私』の意識が創っているものであり、私が死ねば世界はなくなる」といったものです。

 有名なデカルトの「考える故に我あり(世界のあらゆるものは存在するかどうかを疑うことができるが、『考えている私』が存在することだけは疑うことができない)」はその典型です。私が最近子どもについて考えていることのひとつは、子どもの独我論というものです。

 例えば先週、中田先生とのカウンセリング講習で話題になったA君は、しばしば独特なかたちで世界を見ます。何かいやな思いをしたと感じた瞬間、その思いを中心に世界を再構成し、復讐に燃えたりするのです。「仲間はずれにされた」と感じた瞬間、さまざまな客観的な事実を片っ端捻じ曲げて、自分だけのストーリーを作り上げます。まさに「ぼくの見た、ぼくの世界の、ぼくの物語」です。本当はそんなことないのに。

 教室に行き渋っているB君もまたしかり、彼の目に、教室は少数の集団によって引き回される単一の流れになっています。悪いことに、その少数はB君のことを軽蔑し嫌っているので、それに引き回される学級全体も彼を軽蔑し嫌っています(本当はそんなことないのに)。世の中にはとりあえず学級という社会しかなく、したがってかれは社会で生き生きと生きていくことはできません。

 いずれの場合も、世の中にはさまざまな考え方や感じ方があり、キミの見方はそのうちのひとつに過ぎず、真実はまったく別のところにあるのかもしれない、といった感じ方ができれば問題は解決してしまうのです。しかしそれができない。まるで独我論のように「ぼくの世界」にふけりこんでいます。

 理屈上、そういう子たちにはさまざまな経験をさせ、何かトラブルがあればその都度人間関係の意味を大人が伝えていけばいいということになるのですが、トラブルは都合のよい時に都合のよい程度で起こるとは限りません。難しいことです。