カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「初心なあの頃、初心な人」~韓国は大丈夫か2

 韓国・文政権の外交のことを考えていたら
 遠い昔の自分のことを思い出した
 そして昔のわが国総理大臣のことを
 ――なぜそんなことが思い浮かんだのだろう?

というお話。

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【田畑を耕し、海に餌を撒く】

 古い話ですが教員になって間もないころ、何かの宴席で先輩の教師に呼ばれ、説教をされたことがあります。先輩の言い分はこうです。
「Tさんは生徒と勝負していない。生徒に向き合っていない。生徒から逃げている」

 まったくその通りで、自分でも問題を回避しているのは分かっていました。ですが面倒だから逃げていたのではありません。生徒と勝負する、そのやり方が分からなかったのです。
 例えば清掃の時間にサボっている生徒がいて、その子に仕事をさせる、そのために“勝負する”、その具体的な方法が分からないのです。

「オイ、サボってるんじゃない! 働け!」で「はい!すみません。しっかりやります」となるはずもありません。担任の目のあるところでサボるような子は、最初から挑発的なのです。言われていちおう手を動かす程度のことはするかもしれませんが、それ以上はしない。

 そこで「なにウダウダやってるんだ」みたいな言い方をすると厄介なことになります。シレっと無視されるだけならまだしも、相手の虫の居所が悪ければ、
「やれっていうから、やってやってるんじゃねえか」
「ふざけるな! そんなのは“やってる”中には入らんだろう」
みたいな不毛な言い合いになり、最後は怒鳴り合いです。
 こちらが沸点の低い教師の場合、その瞬間に暴力が出てあえなく懲戒免職です。

 そこまで行かなくても、仮に無視されて終わっただけだったとしても、それはそれで大問題です。何回も注意して何回も無視されるということは、結局担任の言うことは聞かなくていいと躾けているのと同じだからです。その躾は、周囲で見ている生徒にも伝わっていきます。

 したがって注意する以上は絶対に従わせなくてはいけない、従わせる自信がなければ黙っているしかない――それが私の“回避”の主な理由です。

 しかし暴力もダメ、暴言もダメ、話し合ってもダメ、逃げてもダメ――だったらどうすればよかいのか。

 
 今の私なら分かります。
 問題が発生したときの、その場で行える指導には限界があるのです。なだめようが、すかそうが、怒鳴ろうが、殴ろうが、その時点で切ることのできるカードには限りがあって効果も薄いのです。

 指導が指導として成り立つためには、相手が教師の話を聞き入れるだけの下地をつくっておかなくてはなりません。
 どうでもいいときにたくさん対話をしておくとか、相手の話をよく聞いてその生徒の理解を深めておくとか、気軽に声を掛けられる人間関係をつくっておくとか、あるいは道徳の授業や学級指導、教科指導や特別活動の中で、働くことの大切さとか、まじめに生きることの価値だとか、あるいは誠実に生活することの重要性だとか、そういうこと全部を丁寧に教えておくのです。
 その上で切るカードは、それ自体が大したものでなく手も必ず効果があります。普通の先生はそうしています。


 畑で言えば十分に肥料を入れて耕し、海だったらたくさんの撒餌を投げいれておくように、下準備をしっかりしておけば労せずして収穫を得ることができます。それもしないでいきなり種を播いたり糸を垂らしたりするから、エネルギーも時間もムダになります。

 

【正義は多様、人は言葉だけでは動かない】

 かつて日本に自分の奥さんから「宇宙人」と呼ばれた総理大臣がいました。
 彼は出口戦略もないのに前政権が決めた米軍基地の移転先を否定し、「最低でも県外」とか言ってしまったのであとで切羽詰まります。
 事態の進捗を心配するアメリカ大統領に対しても「トラスト・ミー」とか言ってドン引きにさせます。当時の米大統領は「沖縄問題で我々はどんどん時間がなくなっている」「貴方は私を信じろと言ったが、本当に信じられるのか」と詰め寄ったと言います。当たり前です。

 「私を信じろ」というからにはそれなりの材料がなくてはません。綿密で実現可能な計画があってそれを明らかにするとか、政治家として約束したことは必ず果たしてきたという実績があるとか、強い個人的人間関係があるとか――そういったものが一切ないのに信じてもらえると考えるのはあまりにも初心です。

 ただこの元総理は善人でしたからすべてのものごとに対して、誠意を尽くして正しいことを語り続ければ必ず世の中は分かってくれるはずだと信じ切っていました。彼が知らなかったことは、“正義”にはそれぞれ人数分ものかたちがあってしばしば拮抗すること、そして人は言葉だけでは動かないということです。


 以上、古い話を二つしましたが、これを思い出したのは、もしかしたら文在寅政権は、新任のころの私のように無策で、元総理のように初心なのかもしれないと考え始めたからです。

                           (この稿、続く)

 

 

 

「シャイでナイーブな文政権の匂い」~韓国は大丈夫か1

 日韓問題がいよいよ新しい段階に入った
 業を煮やした日本政府が
 韓国の産業に必須の原材料に輸出制限をかけたのだ
 しかしなぜこんなことになってしまったのだろう
というお話。

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【驚いていることに驚く】

 6月30日、産経新聞
「政府は、韓国への輸出管理の運用を見直し、テレビやスマートフォン有機ELディスプレー部分に使われるフッ化ポリイミドや、半導体の製造過程で不可欠なレジストとエッチングガス(高純度フッ化水素)の計3品目の輸出規制を7月4日から強化する。いわゆる徴用工訴訟をめぐり、韓国側が関係改善に向けた具体的な対応を示さないことへの事実上の対抗措置」
とすっぱ抜き、翌7月1日、経済産業省より正式の発表がありました。実施は昨日7月4日からです。

 フッ化ポリイミドとレジストについては知りませんでしたが、エッチングガス(高純度フッ化水素)については前々から“輸出制限をするならこれだろう”ということで噂がありましたからそれ自体は驚きません。
 びっくりしたのは韓国の反応です。

japanese.joins.comjapanese.joins.comwww.chosunonline.com
 まるで晴天の霹靂といった感じです。
 しかしそれはおかしい。

 

【予告された輸出制限】

 これを報復と呼ぶかはそれ自体が問題ですが、徴用工裁判に関して韓国政府が何の動きも見せず、日本政府が日韓請求権協定に基づく仲裁委の設置を要請しても「慎重に検討する」と言うだけで何もしない。そうした状況に対して日本政府が何らかの非常手段を使うに違いないというのは以前から言われていたことです。

 引用した保守系2紙もここ数カ月、
「徴用工裁判で差し押さえた株が換金されたら、日本は必ず報復するぞ」
「その前に何とか対話しろ」
「G20の席で打開策を探れ」
「このままだと日韓首脳会談もできないぞ」
「何とかしろ」

と、ほとんど悲鳴に近い記事を毎日のように掲載し続けていました。その声が政府・財界に全く届かないはずはありません。

 また今年に入ってからの日韓関係の冷え込み具合、特に日本側の異常な反応は繰り返し韓国にも伝えられていました。
 韓国の当選4~5回というベテラン議員団が国会を訪問したところ、日本側は一年生議員がたった一人で対応するだけだったとか、日韓で伝統的に行われてきた政財界の行事が片っぱし延期になったとか――今回に限って日本は今までと決定的に違うというシグナルは、大量に届いていたはずです。
 それなのにまったく対応せず、今になって驚いている――。

 G20直前に、“日韓両国の関係企業が資金を出し合って、元徴用工に支払う”といったアイデアが出されてきましたが、それはもう8カ月も前に韓国政府自身も不見識と否定し、日本政府が絶対に受け入れないと分かっている案です。
「出せというから出してみた」
 その程度のものでしかありません。

 

【シャイでナイーブな文政権の匂い】

 文政権が反日か否かと問われればやはり反日的だというしかありませんが、しかし考えてみるとさほど攻撃的に反日政策を行ったわけでもありません。

 スローガンである「積弊清算」は国内の政敵を倒すための手段であって、親日というレッテルを張られて政府中枢から遠ざけられたのは韓国の政治家・官僚です。

 慰安婦合意の実質的破棄も、日本の拠出金の穴埋めは税金でやると言って勝手にやめてしまっただけで、我が国に対して何か詰め寄ってきたわけではありません。日本に再交渉は求めないと言い、宙に浮いた10億円も浮かせたまま、日本に突き返すための努力もしてきませんでした。
 考えてみると慰安婦像も積極的に建立しようとしたのではなく、放置しただけです。徴用工像についても政権は何もしていません。

 レーダー照射問題はこれとは別ですが、威嚇低空飛行問題を捏造していわば抱きつき心中みたいに問題を消そうとしただけで、日本に賠償を求めてきたわけでもない。そして現在焦眉の急である徴用工問題も、韓国政府が最高裁判所に対して“何もしなかった”結果でしかありません。

 さらに言えば今回の日本の輸出制限に関しても、世界貿易機関WTO)提訴や技術開発を通じた半導体材料国産化(そのため毎年1兆ウォン相当の投資を行う)、日本の輸出制限によって被害を被る関係各国との連絡調整など、いずれも日本と直接、向かい合わないで済む方策しか出てきません。

 こうして並べてみると、文政権が反日政策といった能動的なことをどこまで追求してきたのかだいぶ怪しくなります。その意味で「加害者と被害者の関係は1000年経っても変わらない」と言った朴槿恵政権よりも、はるかに反日的ではないとも言えます。

 文在寅政権の対日外交を振り返って感じるのは、反日といった強いメッセージではなく、悪く言えば無策、少し良く言っても南北関係以外のすべての外交に関する無関心、そして多少寄り添った言い方をすれば、それはシャイでナイーブな素人集団の匂いです。

                       (この稿、続く)

「災害が人を育て、災害が国を守る」~自然災害と日本人 

 大雨の日
 なぜかくも九州ばかりが叩かれるのだと思いながら
 だから九州は人を育ってるのかもしれないと思い
 同時に日本全体のことも考えた

というお話。

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 記事はいつも前の晩に作成するので、2019年7月4日、つまり本日の分を書いている現段階では、九州の豪雨がどいう状況になったのかは分からないままで心配です。
 特に今年は息子のアキュラがそちらに転勤したばかりなので気になりますが、息子に限らず、大きな被害が出ないことを心より祈っています。
 
 

【災害ハイウェイの民】

 半世紀も前、謎の作家イザヤ・ペンダサンは名著「日本人とユダヤ人」の中で、ユダヤ人との日本人を「ハイウェイの民」と「別荘の民」に譬え、ヨーロッパとアジアの要衝でさまざまな民族に蹂躙されたユダヤ人に比べ、日本人は東洋の果てで別荘の民のように安全に暮らし続けたと嘆きました。しかし自然災害について言えば、日本人はユダヤの人々よりもはるかに激しく、はるかに多く痛めつけられた歴史を持っています。

 日本のポンペイと呼ばれる場所は国内にいくつかあると思いますが、同じ群馬県の黒井峯遺跡と鎌原村はそれぞれ古墳時代・江戸時代に一か村まるまる火山灰に沈んだ跡です。黒井峯遺跡から1kmほど離れた金井東裏(かないひがしうら)遺跡からは2012年に、鉄製鎧を身につけたかなり状態のよい人骨一体が発見されて話題になりました。

 鎌倉大仏は1243年の開眼以来、台風のためのに二度倒壊したあと、新たな大仏殿が明応地震(1495年)の津波によって流され、以後建てられることはなかったと言われています(異説あり)。そうだとすると現在露天であること自体が、災害の証明だと言えます。

 その他、全国いたるところに津波・火山・台風・洪水・大規模火災等々の記念碑があって、日本人がいかに多くの災害あってきたかを示しています。

 特に九州は慢性的な台風の通過点ですし、活火山も多く、有史以来日本で最も多くの台風災害・噴火災害・地震災害に襲われてきた土地です。

 鹿児島県の半分以上と宮崎県の15%以上を覆うシラス台地は典型的な火砕流台地で、雨にも地震にも弱く、また台上はほとんど吹き曝しで大風にも弱いという三重苦を背負っています。水田もできなければ他の作物も育ちにくい。
 だから多くの偉人が育ち、神々の里とされるのかもしれません。
 
 

【災害が日本人を鍛える】

 災害は日本人を強くしました。
「仕方ない」は字義通りだと「どうすることもできない」「ほかによい方法がない」「打つ手がない」といった絶望的な言葉ですが、その「仕方ない」が日本人の口から出るとき、あるのは絶望や怒りではなく、事態を粛々と受け入れようとする強く静かな意志だけです。さらには「さあ、時が来たらもう一度立ち上がって前に進もう」といった前向きな気持ちの萌芽も見えます。

 私たちはそのように生きてきたのです。

 270年に渡って幕府の基盤を支えてきた江戸は、繰り返し災害に見舞われた町です。
 大火災や大地震といった災害が起こるたびに整備され、火除地・広小路と呼ばれる空間がつくられ、延焼を防ぐようにしました。大名屋敷は火事に強い瓦ぶきが中心となり、土蔵造りや塗り屋(外部に土を塗った建物)、貝の粉末を焼いて塗った黒壁などの耐火建築も発達します。

 一方、庶民の住居はマッチ箱のように華奢につくり、いったん火災が起こった時には簡単に破壊・撤去して応急の火除地が広げられるようにしました。簡単に壊してしまう代わりに、幕府は大量の材木在庫を用意して、いつでも再建できるようにしていました。
 いずれも災害が授けた知恵です。
 
 

【災害が国を守る】

 災害の多さがこの国を守ったという側面もあります。
 モンゴル襲来において2度までも風が味方したことは有名ですが、ポルトガルやオランダが版図を広げていた16世紀~17世紀、南蛮人・紅毛人と呼ばれるヨーロッパ人が繰り返し日本にやってきたにも関わらず、この国を植民地にしようとしなかった理由のひとつが災害の多さだったと言います。
 彼らの主たる活動の地が九州だったことが、国防という意味では幸いしたとも言えます。

 1854年、ペリーの再来航の年、ロシアはプチャーチンを代表とする使節を送り、日本に通商を迫ります。
 ところがその12月、安政東海地震と呼ばれる大地震があり、プチャーチンの船は津波に襲われて大きく破損してしまいます。船は2年後、修理のために曳航されている最中に今度は大風に遭って座礁、沈没してしまいます。
 有名な安政地震はその間に起こっていますから、おそらくプチャーチンも体験したのでしょう。その後しばらくロシアは日本史の舞台に出てきませんが、そのことも関係があったのかもしれません。外国人が暮らすには、あまりにも条件が過酷ということなのでしょう。


 この国の人々は常に災害と共にあったのであり、歴史は災害と切り離して考えることはできません。
 今もつらく不安な時を過ごしておられる方々にはほんとうに申し訳ないのですが、遠くから祈ってます、是非とも身の安全を第一に、この難局を乗り越えるようにしてください。
 
 
 

「親が注意ばかりしていると子もそうなるのか」~かつての教え子から相談を受けた件 3 

 相談の本筋
「自分が誉めることを二の次にして注意ばかりしてきたから
 子どももそうなったのかもしれない――」
 しかしそれって どうなんだろう?
 さらに 誉めるって そんなに難しいことかな?

というお話。

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 2回に分けて送るつもりだった元教え子への手紙。一本目に対して素晴らしい返事が来たのでつい寄り道しましたが、ここからようやく2回目の本筋です。
 
 

 【親が注意ばかりしていると子もそうなるのか】

 私はK子さんが考えているように、親が細かく注意するので娘も注意するようになったという説には必ずしも賛成しません。

 子は親の鑑と言ったりしますが、なんといっても子どもには生まれながらの性格というものがありますし、幼稚園や学校でつくられた人間関係もあります。母親の対応というのは子どもが受けている影響の一部でしかありません。
 だからその点で感じすぎるほどに責任を感じる必要はないと思うのですが、それとは別に、子どもにとっては注意ばかりされている毎日、親にとって注意ばかりしている日常って、さっぱり面白くありませんし、なにか不健康な気がします。
 親の方は我慢するにしても、子は下手をすると意欲や生き生きとした表情を失ってしまいます。

「だから子どもを注意するのは控えましょう」という話にはもちろんなりません。注意するのを控えたらあれもこれもダメになりそうで不安ですから。
 それにもともと注意されるような子には悪いところがあるわけで、やはり放置することはできません。「注意」は減らそうと思ってもなかなかできるものではないのです。

 しかし自然に減ることはあります。
 誉める機会を増やすと、子どもはもっと誉められるように努力しますから、注意しなくてはならないことがどんどん減って行くのです。

 昨日も申し上げたように、親が子の成長を喜び、良いことをしたり誉められたりした話を熱心に聞いて、ともに喜び合ったりする時間が増えると、子は毎日ひとつくらいは、学校から“いい話”を持って帰ろうとします。そのために何かいいことをして帰ってきます。
 もちろん、直接的に親から誉められるのはもっといいことです。

 でも、誉めるって難しいですよね。子どもって、よく見ていても誉められるようなことをなかなかしてくれませんから。
 
 

 【誉められるようにしてから誉める】

 これについては、私に有効なアドバイスがあります。教師ならみんな知っている方法なので自信があります。
 それは「誉められるようにしてから誉める」ということです。

 昔、山本五十六(いそろく)という海軍の英雄がいました。この人の言葉に、
「やってみせ 言って聞かせて させてみて 誉めてやらねば 人は動かじ」
というのがあります。「まず見本を見せ、十分に説明して その上で実際にやる姿を見守り できたら誉めてやる そうしなければ人間は育たない」
という意味です。

 ここで言う「人」は大人であって子育ての話ではありません。
 大人であっても手本を見せたり説明したり、やらせてみたりして、うんと丁寧に教えてその上で“誉める”。あれだけ教えたんだからできたって当たり前、と思ってはいけないのです。
 大人ですらそうですから、子どもはなおさらです。ここに子どもを誉めるコツがあります。

 宿題を見てやるときも、難しい問題は一緒に考えて、内心《ほとんどアタシがやったようなものだからできなきゃバカだろ》という思う場合も、できたら抱きしめるようにして大げさに誉める。
《そんなに大げさに誉めたら、逆にバカにしていると思われないかしら》
 そう思うくらいがちょうどいいのです。

 K子さんだって派手に誉められたら、最初は胡散臭い気がしても、やがてうれしくなってきてしまうでしょ?

 お嬢さんの場合ですと、女性同士ですから料理を教えるなんてのもいいでしょう。親子で一緒に新しいレシピに挑戦するのです。
 レシピ通り、肉何グラム、食塩何グラム、加熱時間は何分と正確にやればほぼ100%、美味いものができるに決まっています。

 料理の先生の中には、
「レシピ通りにやればおいしくできるなんて当たり前だから誉めてもダメ。誉めていいのは野菜の切り方だとか盛り付けだとか、レシピ通りにできない部分だけ」
などという人もいますが、それはレベルの高い生徒に限った話で、子どもはそんなふうに考えません、

 その証拠に
「今日、先生の言うとおりにやったらいい絵が書けた」とか「先生のお陰で逆上がりができた」なんて言う子はひとりもいないでしょ? みんな自分でやったつもりでいる。
“たくさんの仕掛けを用意して、どんな子でもできるようしてからやらせ、できたら誉める”は学校の先生たちがいつもやっていることです。

「バカでもできるように丁寧に教えて、その上で、できたら誉める」
 それを繰り返していると、自然と「注意」は減るものです。親だって誉める方が気持ちいいのですから、誉める時間を増やすと「注意」なんかしたくなくなるものです。

 以上です。
 また何かあったら連絡をください。

 相談してくれてありがとう。素敵な、賢いお母さまにもよろしくお伝えください。

                             (この稿、終了)
 
 
 

「『お母さんはこういう話が好きだ』ということの教え直し」~かつての教え子から相談を受けた件 2

 
 すべての子どもは 親の期待に応えたいと思っている
 しかし同時に 子どもはしばしば親の期待を読み誤る
 本人は意識していないのに
 そうやって事実が捻じ曲げられる

というお話。

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【続きを待たずに来た返事】

 昨日の続きですが、私がそれを書き送る前に返事が来てしまいます・

 母と先生の文章を読みました。
 母が先生は本を出したらいーのにって言ってました(えへへ)
 私は上手に説明ができず、娘に注意する時も長々として。
 母曰く、先生の文章を読んで感じたことは、そんなに深く話に入り込んだらダメって!
 すごく細かく聞いてしまい、あたし自身がヒートアップしちゃって……
 毎回しっかり聞きすぎて、娘は余計にママが聞いてくれるからって友達に注意してケンカしたことを話してくるんだよって言います。
 話は聞くけどもっと軽く聞いてあげたら、注意することも、それに集中しなくなるんじゃないの? って。
 もっと違うことをしっかり聞いてあげられるようにもあるのかな、

 ゆっくり気持ちが落ち着いたら 私の言葉で娘に話してみます。
 注意する以外のやり方を。
 
 

【子どもはしばしば誤学習をする】

 お母さんは偉い!
(若い子ならここで「パチパチパチ」と書いたりするところですが、私はいい齢ですのでそんなふざけた書き方はしません)

「毎回しっかり聞きすぎて、娘は余計にママが聞いてくれるからって友達に注意してケンカしたことを話してくるんだよって言います」
 まったくその通りです。

 ときおり低学年のお母さんで、子どもがいじめられてはいないか、そればかりを心配する方がおられます。子どもが帰ってくると心配で心配で、学校で起こったことを一から十まで全部聞き出そうとするのです。
 子どもの方はウザくて仕方がないのですが、お母さんがあまりにも不安そうなので仕方なく付き合い続ける。その年頃の子はまだまだ親の言いつけに従いますから案外辛抱強く付き合ってくれたりするのです。しかし親を納得させられるような話はなかなかできない――。

 ところがある日、学校で友だちと嫌なことがあってうっかりその話をすると、お母さんの顔がパッと輝きます。母親にしてみればこれまで不安で不安で仕方なかったことが今こそはっきりしたのです。やはり私の予感は当たっていた、この子はいじめられている! 曖昧模糊として霧の中にいたような状態から、目の前がパッと開けた感じになります。それを子どもは誤解します。
「ああ、あんなに不安そうだったお母さんをスッキリさせるには、こういう話を持って帰ればいいんだ」

 翌日からその子は学校で嫌な思いをしたことを忘れずに持ち帰り、母親に話します。ひとつ持ち帰るだけで昔のように長々と質問されることはありません。ところがうっかり何も持たずに帰ると話はいきなりしつこくなります。
「ホントに何もなかったの? 何かあったはずよ、よく思い出して――」
 そこでどんな小さなことでも忘れないように記憶に留め、どうしてもなければ多少話を盛ってでも、何か一つは持ち帰るように心がけます。

 しかしそんなふうに毎日毎日言いつけられる同級生の方はかないません。陰での話とはいえ、親子にいじめっ子扱いされているのですから。しかもそれだけならいいのですが、やがて我慢できなくなった母親が学校に相談を掛けたりします。当然、担任はその子たちを指導します。

 身に覚えのないいじめで怒られた子の方は面白くありません。やがてその子との間に距離を取り始めます。ところが今度はそれが「無視された」「仲間外れにされた」という報告になり、再び母親が動いて担任が指導します。
 そんなことが数回か続くと、友だちの中のこらえ性のない子がこんなふうに考えます。
「やってもいないことでこんなに『いじめ』『いじめ』と言われるならもういい! 本当にイジメてやる!」
 かくして本物のいじめが始まります。お母さんが心配したことが現実になり、子どもは毎日毎日いじめられて帰るようになって、メデタシ、メデタシ・・・・(じゃないな)。
 でも、いかにもありそうな話でしょ?
 
 

【ほんとうに素敵な、バカで無能で悪い先生】

 特殊な親子の間で捏造される話というのは、何もいじめに限ったことではありません。他にも「教師がいかにバカで無能で悪人か」という話が大好きなお母さんもいますし、「学校がいかに不合理で常識外れか」かといった話の好きなお母さんもいます。そうしたお母さんを持つ子どたちは、毎日「先生の悪いところ」や「学校の不合理なところ」を探しては忘れずに持ち帰らなくてはなりません。

 例えば担任が気心の知れた生徒に「お前バカじゃネ? 死ねば?」みたいなことを仲間気分で語ったとします。直接言われた方は「気心の知れた生徒」ですから、「先生こそ死んだほうがいいと思うよ、年も年だし」とか言って笑い合います。
 ところがそれを横で聞いていた「先生の悪いところ大好き母親」の子どもは急いで家に帰って母親に報告します。
「先生が○○君に『オマエ、バカじゃねえか、死ね』と言ってた」
 母親は考えます。
「さすがにこれは自分一人の心に納めて置ける話ではない。教育委員会とかマスコミとかを動かさなければ・・・」
 かくて数日後、新聞に「担任教師、生徒に暴言、『死ね』」の記事が載ります。身に覚えのない話ではありませんから担任もしぶしぶ認めざるを得ません。
 これもよくある話です。

 K子さんのお嬢さんの場合、「友だちを注意したのに理解されなかった」という話をするたびにお母さんが真剣に話を聞いてくれるので、あえてそうした事実を中心に持ち帰っている――、そういう可能性も大いにあります。
 ですからお母さまの「そんなに深く話に入り込んだらダメ」は、大いに試してみる価値があるのです。
 もしかしたらそれがド正解です。
 
 

【「お母さんはこういう話を聞くのが好きだ」ということの教え直し】

 ただし「深入りしない」とか「さっと流す」とか「肩の力を抜くとか」――そういうのは凄く難しいですよね。「ガンバレ」とか「真剣にやれ」とか「きちんと丁寧に話を聞け」とか言われた方がよほど楽です。

 これは教師であり父親でもあった私にとっても難しいことで、まったくうまく行きませんでした。ですからアドバイスできる何事もないのですが、ある専門家はこう言っていた、ということでK子さんならできるかもしれないことをお話します。

 K子さんのお母さんならご存知だと思うのですが、かつて昭和天皇の口癖として世間に広まっていた言葉に、「あ、そう」というのがあります。それを使えばいいというのです。

 真剣に話を聞くのを避けたい場合はきちんと向かい合わず、何かの作業をしながら聞く。そしておおよそ話がひと段落したら、
「あ、そう。ところでそこのマヨネーズ取って。だし巻き卵って、ちょっとマヨネーズを入れるのがコツなのよね。やってみる?」
といった具合です。もちろんこれは基本形なので応用の仕方は考えなくてはいけませんが、一応、頭に入れておいていいことでしょう。

 ただし「話をいい加減に聞くようになった」、だけでは親子関係を崩しますから、別の部分に興味をもってきちんと話を聞く場面をつくらなくてはいけません。
 何かしていることがあればいったん手を休め、きちんと向かい合って話し合う場面も必要です。

 お母さんはこういう話を聞くのが好きだ、というのを教え直すのです。


                        (この稿、続く)
 
 
 

「友だちの注意してばかりいる子をどうしたら良いのか」~かつての教え子から相談を受けた件 1

 30年近く以前の教え子から相談を受けた
 小学校3年生の娘が毎日のようにケンカをして帰ってくる
 原因は娘が人のことを注意してばかりいるからだ
 どうしたらいいのだろうと 
 それに応えた

というお話。

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【相談します!】

 先生 こんにちは。子供のことで相談したくLINEします。
 小学三年の娘のことなんですが、学校で友達のことを注意してばかりで、それがもとで毎日のようにケンカをして帰ってきます。
 私が注意ばっかりしすぎて、何しても注意から始まって、褒めることは2番目、それがいけなかったのかもしれませんが、娘も友達を注意することが多すぎるようです。
 何をやっていても周りが気になるようになってしまい、集中もできてないのかな?
 注意することはいい事だけど、毎日 注意することで、友達とケンカばかり。

 自分もできないことあるのに他人を注意して、その上で喧嘩になって泣いて帰ってきたりして、昨日もケンカ、今日もケンカって聞くと、私も相談のるけど、毎回毎回だともう注意なんかしなくていいじゃないとか思ってしまいます。
 クラスの学級係をやったりして前には出たい子です。注意するならメンタル強くして、泣かずに帰ってくればいいのにと思うこともあります。でもその子の性格もあるのかな……
 友達に指摘されて直していけばいいのかなとか、私も娘とのやり取りで直すところたくさんあるなとか、私の何がいけなかったのかとかいろいろ考えたり。どうしていけばよいのか……
 先生、ホントにどうしたらいいのでしょう?

 

【お返事します!】

 お返事します。
 長文になります。

 だいぶ以前のことです。4歳になる私の孫が、保育園のお昼寝の時間に、「○○ちゃんが寝てないよ」と保育士さんに言いつけに行ったそうです。
 保育士さんが、
「そう言うあなたも寝てないじゃない」
というと、びっくりして慌てて布団に戻り、毛布を被ったといいます。保育園の連絡帳に書いてありました。

 自分のことは棚に上げておいて、友だちの非を打ち鳴らすというのは子どもにはよくあることです。親が注意ばかりしているとそうなるのかどうかはよく分かりませんが、ただ繰り返し注意しても相手が言う通りにならないと、「口で言ってもダメだから」ということで、無視だの吊し上げだのといった実力行使に出ることがあり、それを世間は「いじめ」といいますから今から注意しておく必要はあるでしょう。

 さらにK子さんもおっしゃっている通り、注意すること自体は悪くない、そして注意される以上、根本的には相手に非がある――つまりお嬢さんは“正義”を行っているわけで、それはそれで厄介です。悪いことなら叱ればいいだけですが、“正義”だと思ってやっていることを止めるのは相当に難しいことです。
 

 【靴をそろえる】

 話が遠回りになりますが「靴をそろえる」という話をします。
 私がK子さんの中学校の女子バレー部の顧問だった時のことです。
 上位大会に進んで選手を連れて行ったら、その開会式で大会委員長がいきなり、
「今日、優勝するチームはもう決まっている」
なんて言うのです。失礼ですよね。まだ一試合もしていないというのに。その上で、
「私の話が嘘だと思うなら、下足箱を見てきなさい。そのチームの靴は完全に揃っている」

 私は素直な性格なのですぐに見に行きました。F中でした。すべての靴が踵までピシッと揃っていたのです。一人ひとりの自覚が高いのですね。

 それからしばらく夢中になって靴ぞろえを指導し、ムキになって頑張ったのですがついに私のバレー部は完全にそろうということがありませんでした。最初はそろうのですが、何回か出入りしているうちに必ず乱れてしまうのです。全員の自覚がそろわないのです。

 ところがそれから何年もして、小学校の教師になってから、私は靴のそろえ方について先輩からこんな指導の仕方を教えられたのです。

 小学校に入学したばかりの子どもたちを下足箱に連れて行き、まず靴をきちんとそろえさせます。これ以上ないというくらいきちんとさせる。そして、
「ほら、気持ちいいよね。みんなピシッとしてすてきだね」
と話します。そのあと一足だけわざと崩して、
「こんなふうになっていると、やっぱりいやでしょ? 変だよね」
 子どもたちはここで大きく頷きます。
「じゃあ、お友だちの靴がこんなふうになっていたらどうする?」
 ここで出てくる答えは100%「注意する」です。私も何回かやりましたが確実に出ます。
「そうだね、注意すればいいんだよね」(と、いったんは認める←ここが大事。すぐに否定しない)

「でもね、何度注意してもできない子って、やっぱりいるよね。すぐ忘れちゃう子とか、いつもギリギリに走ってきてそろえる時間がなくなっちゃう子って。そういう“どうしてもできない子”の靴はどうしよう」
 この次の答えは簡単には出てきませんが、クラス全員に聞けば一人くらいは言います。
「直してやる」
 これこそ教師が待っていた答えです。
「そうだね、直してやればいいんだよね」
 そう言って教師が目の前で直して見せます。
「ほら、気がついた人がこんなふうに直してやれば、みんなそろってすごく気持ちがいいでしょ。みんなもこんなふうにできるかな?」
 そう聞くと1年生は全員が「ハーイ」と答えます。
 ただし決心したことを全員ができるということはありません。友だちの分まで直し続ける子なんて一クラスに4~5人もいたら御の字で、クラス全員の靴がピシッと揃っているとしたら、それは実際には2~3人の子が常に頑張っているだけなのです。素晴らしい子たちですよね。

 けれどもそんな素晴らしい子たちの息も、それほど長く続くものではありません。ときどき誉めてエネルギ-を注入してやらないと長続きしないのですが、それがなかなか難しい。乱れた友だちの靴を直してやっている場面になんて、そうそう簡単に出会うことはないからです。

 そこで私に教えてくれた先生は子どもたちに魔法をかけます。
「キミたちがやった“いいこと”“敵なこと”は必ず神様が見てくれている。だから“いいことをしたときはひとに言ってはいけない”んだよ。内緒にしておくんだ」
 内緒でやることに価値を置くようになると、子どもたちは誉められなくてもいくらでも頑張ります。

 バレーボールのF中の強さも、あとから考えれば個人の自覚の問題ではなかったのです。チームに縁の下の力持ちが何人かいて、その子たちが常に靴をそろえていた、そしてその子たちが縁の下で頑張っていることや、その子たちの期待を知っているから、レギュラーも死ぬほど頑張る、ということなのだなと後から思いました。

 “正義”を行っているK子さんの娘さんが学ばなければならないこともそこにあります。
「正しいことでも人にはできないことがある、できない人がいる。その人たちのためには“注意する”以外の他の方法を考えなくてはならない」
ということです。

 

【それ以外の方法】

 「できない」というのは能力的にできない場合(記憶力がない・集中力がない・筋力がない、面倒くさくて動けない、まだまだ気持ちが赤ちゃんレベル、等々)もありますが、小学生くらいになると他にもたくさん理由が出てきます。

「今やろうと思ったのに、先に言われたて気分が悪い」
「他の子との秘密の約束があってやりたくてもできない」
「上から目線で言われるのがいやだ」
「オマエに言われたくない」
「できないのはボク(私)だけじゃない」
「なんで僕だけ言われるの?」(ほんとうは“ボクだけ”が言われているわけではない場合も)
 想像したらいくらでも出てきます。

 ですから今度トラブルがあったら、
「○○ちゃんはどうしてそんなことをするのかな(しないのかな)?」
と聞いてみるといいのかもしれません。
 もちろん最初の答えは、
「性格が悪い」とか「バカだから」と言ったことになります。よく考えずに返す答えですから、そこのところを強く咎めてもいけません。ここからどう切り返すかがK子さんの腕の見せ所です。

 話を持って行きたいところは、
「注意されてもできない子がいる(みんながあなたのように優秀なわけではない)」
「そういう子には別のアプローチが必要だ」
「“注意する”以外にできることはないかな?」
です。
 それら全部をK子さんが言うのではなく、お嬢さんの心の中で自分の言葉として浮かぶように仕向けるわけです。クラスみたいな集団だと誰かが正解を言いますから楽なのですが、一人の心にそうした動きを起こさせるのはとても大変です。

 ですからたいていの子は答えにたどり着く前に息が切れてしまい諦めます。
「しかたないなあ、他の方法を考えるのも面倒だし、できないならできないでいいや」

 ケンカにもいじめにもなりませんから、それで終わってしまってもいいのかもしれません。
 一回ではうまく行かないと思いますがとりあえず「ケンカが起きない1年間」を目標にやってみるといいでしょう。
 その間にも「注意する以外にできること」について考え続けさせれば、きっと素晴らしい成長の糧になると思います。

 もう少し話したいことがあります。それは
「私が注意ばっかりしすぎて、何しても注意から始まって、褒めることは2番目」
についてです。
 しかしそれは明日にしましょう。今日はもうずいぶんとお話ししましたから。
 
                           (この稿、続く)

「インフルエンザとヌーハラ」~常識を疑うことを疑う

 常識を疑うことは大事だが 常識を捨てる前にやることがある
 それはもう一度 常識の価値を確認することだ
 注意しないと 大切なものを簡単に捨ててしまうことになる
というお話。

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【常識を捨てる前にやること】

 昨日のホテル・旅館の布団の話ではありませんが、私たちが常識だと思っていることに疑問を呈するのは大切なことだとしても、常識が常識として通用してきた背景には何らかの必然性があったはずで、それを「間違いだ」「すでに意味がない」「人権上問題がある」等々の理由によって転覆させようとするとき、一度は原点に戻って意味を確認する必要があります。

 例えば一時期、市販のマスクはウィルスを通過させてしまうからインフルエンザ予防にはまったく意味がないということで、「患者以外はマスクをつけるのはやめましょう」みたいなキャンペーンが行われたことがあります。
 しかし結局マスクには十分な予防効果がありましたし、何よりもインフルエンザ患者にマスクをしてもらうには、かかった人もかかっていない人も、少し疑わしい人も、自覚のない人も、何でもかんでもマスクをつける今の状況を大切にするしかないのです。患者だけがマスクをするなんてことはあり得ません。
 これについて私は何回か書いていますが、マスクの文化、捨てなくて本当に良かった。
 

(参考)kite-cafe.hatenablog.comkite-cafe.hatenablog.com他。

【ヌードルハラスメント】

 ヌードルハラスメントというのをご存知でしょうか?

 日本人に多く見られる「麺類を食べるときに、麺をすすってズルズル音を立てる」食べ方が、猫舌の人や外国人に不快感を与えるとして慎むべきであるとする主張を示す和製英語。「ヌーハラ」と略される。Wikipedia
という話で、私は最初、何でもかんでもハラスメントにしてしまう現代の風潮を揶揄した冗談、または悪ふざけだと思ったのです。
 ところがWikipediaに記載のあるように、数年前からネットやマスコミ上でかなりまじめ目に議論された話題のようです。

 デビ夫人が「(麺をすするのは)教養のない田舎っぺ」と言ったとか、「落語の『時そば』の中で蕎麦をすする様子がラジオで広まったことで、『麺類はすすって食べるもの』という誤解が生まれた」とか、「すすって食べるのが許されるのは蕎麦やうどんなど和食由来の麺類だけ」といった折衷案も出たりしました。

 ただ全体的な流れとしては、「麺をすするのは日本の文化であり日本人の勝手」「日本の食文化に対して外国人にとやかく言われる筋合いはない」といった意見が強かったようで、現在、麺をすするのはやめましょう、みたいなキャンペーンは行われていないようです。

 私も基本的に同じ意見で、外国人が不快に思うからやめましょうということなら、私が子どものころ「そんなことをするのはエスキモー(現在のイヌイット)と日本人だけだ」と言われて気味悪がられた魚の生食(寿司や刺身)はとうに滅んでいなくてはなりません。デビルフィッシュ(タコ)や猛毒を持つフグが食卓に上る文化も滅亡するべきだったはずです。実際にクジラ肉はその憂き目にあっていますから。

 ヌードル・ハラスメントと言われる日本の“すする”文化についても、「外国人が嫌がるから」だけではやめる理由にはなりません。
 麺どころかスープや味噌汁まで音を立ててすすっていいのは日本の常識で、常識には必ず理由があるからです。やめるにしてもその理由を吟味せずに終わらせてしまうと、あとでとんでもないことになります。

 

【熱いものを食べる文化】

 ラーメンはすすって食べる方が絶対旨いという話がYouTube にありましたのでリンクをつけておきます。翻訳テロップのない英語の動画ですが5分56秒あたりから日本の歯医者さんが日本語で説明していますから、そこだけを見てもいいでしょう。外国人に麺のすすり方を教える方法なんてのもあって、なかなか面白い動画です。
 
 麺をすすって食べる第一の理由は、そうすることが一番旨いからなのです。

 しかし私自身が一番感じているのは、すすらなければ格好悪いし、そもそも熱くて食べられんだろう、ということです。

 実際にしばらく“すすらない(音を立てない)麺の食べ方”に挑戦したことがあるので分かるのですが、熱々のラーメンなど、すすらずに次々と口に押し込む姿はどう見ても美しくありませんし、実際にやってみると麺に絡んだスープが熱すぎて食べられないのです。すするときに一緒に空気を取り込むことで、ようやく冷やされてある程度の量を口に入れることができます。

 これはスープや味噌汁でも同じで、私たちは熱いものを口にするとき、自然とすする癖がついているのです。

 日本の食文化は強く中国の影響を受けていますが、それにも関わらず導入しなかったものがいくつかあります。代表的なものは象牙や鉄でできた箸と蓮華です。

 なぜ入らなかったのかというと、日本には豊富な木材があって箸は木でつくる方が楽だったからです。また高価な磁器ではなく、木器を中心に食器が発達しましたから中国・韓国とは別な道を歩み始めます。

 木器は熱い汁を入れても手で持てますから、わざわざ箸を蓮華に持ち替える必要がありません。直接口をつけて飲めばいい。ただし蓮華を介さないので熱い汁をそのまま飲まなくてはいけないことがあり、その場合に自然とすするようになったのです。

 欧米も中韓と似て汁物はスプーンで飲みますが、さらに熱いものが苦手みたいで、そのスープも前もって平皿に入れ、冷ましてからでないと飲めないようです。
 最近の「チコちゃんに叱られる」でやっていたのですが、コーヒーカップの受け皿ももともとはカップのコーヒーを移して冷まして飲むためのものだったと言いますから相当な猫舌です。

 欧米人はそのように育てられてしまったのです。
 料理の本場のイタリアやフランスは気候が温暖でしかも石造りの建物に住んでいますから、冷めた料理も苦にならなかったのでしょう。

 ところが日本人は藁ぶき屋根の家で氷点下の冬を過ごさなくてはなりませんでした。熱い汁を熱いうちに、ふうふう吹きながらズルズルとすすって飲むようにしないと冷えてかなわなかったのです。それが日本のやりかたです。恥ずかしいことではありません。

 とりあえずその方が圧倒的においしく食べられることを知らせながら、麺をすすって食べる文化、外国人にも広めていかなければなりません。