同窓会に招かれ、成人式以来20年ぶりに元生徒たちと会った
中には卒業以来25年ぶりという子たちもいて、
さまざまに真相を聞かされたりもしたが
その中に意外な話が出てきた
というお話。
【同窓会に招かれて、ちょっと気が重かった】
中学校教師としては最後に卒業させた生徒たちが、今年は40歳だということで学年全体の大きな同窓会を開いてくれました。
その地方では成人式に旧担任を招いた後、40歳、60歳と20年ごとに同窓会をするのが習わしのようです。4回卒業生を送りだした私は40歳の会もこれが4回目、最後になります。
次は60歳の会。20年後ですがさすがに私もおぼつかないので、今回は同窓会出席自体が最後と決めて参加しました。
しかし決めるまでは(この学年だからというのでありませんが)何か億劫というか、気の進まない感じがありました。というのは退職この方、昔ことを考えると嫌なことばかり思い出すからです。
本来はそういう性格ではありません。
たぶん記憶力に問題があることとも関係すると思いますが、気持ちの切り替えが早く、どんな嫌なことがあっても一晩眠れば忘れることができる性質です。
もちろん気持ちを切り替えても、問題自体は翌日もそのままぶら下がっていることもありますが、それはそれ、改めて向き合えばいいだけのことです。そんなふうに気持ちを引きずらない性格は、教師としても一人の人間としても、ずいぶん得だなあと自分自身、思っていました。
ところが最近、昔のことを思い出そうとすると嫌なことばかり出てくるのです。
嫌なことといっても 辛い思いをしたり傷ついたりといったことではなく、自分が失敗して人に迷惑をかけたこととか、傷つけたこと、嫌な思いをさせたことなどです。
今回の教え子たちについても、ああしておけばとか、あんなふうに言わなければよかったとかいったことは山ほどです。
【最後のお勤め】
けれどやはり担任の来ないクラスの同窓会は寂しい。
これまでの同窓会でもよんどころない事情で参加されない先生がいましたが、そのクラスにはなんとなく見捨てられ感があり、盛り上がりません。
全員が担任とうまくやっていたわけではないので“来なくて結構!”みたいな生徒もたくさんいるはずですが、そういう子は会の際中に担任に近づかなければ済む話。あるいはそんな子でさえも、実際に担任が欠席となれば「ああ、先生はオレたちのことが嫌いだったんだな」と思ったりするかもしれません。
縁があって師弟の関係を結んだ子たちです。これが最後のお勤め、自分の気持ちを殺しても行くべきだ、そんな思いで案内ハガキの“出席”に〇をしたのです。
数カ月前のことです。
【とりあえず立派な大人になっていた】
さてそんなふうに気の進まないまま出かけたのですが、行ってみてどうだったのかというと、やはり良かった――。
40歳の子どもは――いや元生徒たちは、ほんとうに魅力的でした。好き不好きはありましょうが、私は二十歳ぐらいのまだ角も硬さも見られる人間より、円熟した40代後半から40代の人間が好きなのです。
社会に対してある程度の自信が持てて、体もまだ十分に動く。家庭では手のかかる子どもを抱え、職場では中堅の立場で上と下に気を遣いながら、それでもたくましく推し進む――ほんとうに輝かしい年代です。
ある子は地域の議員として地元のために働き、別の子は自営業者としてさらに仕事の幅を広げようとしています。ある女の子は2度結婚して2度離婚し、しかしこれでもうきっぱりと夫なしの人生を生きていける、男という変数が一つ消えた、そんなふうに前向きに語ります。
中学校2年生までに荒れに荒れたクラスを一年間だけ担任し、とても苦労させられた子たちですが、それだけに一人前の社会人として立派に生きている姿を見るのは格別です。
【子どもたちは覚えている】
それぞれに卒業後の人生を聞き、当時はしゃべらなかったこと――、
夜中に学校に忍び込んで爆竹を鳴らして逃げ回ったのはほんとうは誰だったのか、もう時効だから話せと脅して白状させたり、
卒業後、高校二年生の時に3ヶ月も家出した女の子に、その間どうやって暮らしていたのか教えろと迫って真相を聞いたりと、
なかなか楽しい話ができたのですが、その中に、
「先生の授業はとても楽しかった」
という子たちが出てきます。
授業の話をするのはたいていが教科担任としてかかわった子たちです(学級担任をしたクラスの子は教科の話はしない)。しかし具体的に何が楽しかったのかと問うと、覚えていないのが普通です。
ただ、今回声をかけてくれた女の子(もちろん40歳)は、ちょっと違っていました。
「先生の授業でまず覚えているのは、“南米の大きな山脈の名前を憶えているかァ?”“お饅頭の中身はァ?”――“アンです”っての」
そこで私は言います。
「じゃあこんなのは覚えているか。ウラル山脈を挟んで西はユーロ、東はロシア、ふたつ合わせて――」
ここからは合唱になります。
「ユーラシア大陸と、ゆうらしいや!」
・・・・
「しかし覚えているって子はたいていそういうどうでもいいことだけなんだよね」
そう言うと、その子(しつこいけど40歳)は言います。
「そんなことないって。例えば先生の言ったことで一番覚えているのは、
“気の合わない先生も、うまく行かない先生もいるけど、世の中でいつもお前たちのことを気にかけ、お前たちのためだけに一生懸命働いてくれる大人って、親を除けば先生たちだけだからな。だから先生たちを信じろ、信頼しろ――”
って。だから私はそうしてきた」
たしかに私らしい言い方です。30歳まで民間企業で働いていたので、教師という職種の人たちがいかに純粋で、いかに情熱的に子どものために働いているか、必ず伝えたいと思っていたのです。
「それからもうひとつ」
と彼女は続けます。
「“勉強は、分かっても分からなくてもやれ。分からない分からないと言いながらも勉強の周りをグルグル回っていると、いつかストンと分かるときがくる”――私の場合はそうでもなかったけど」
こちらは言われるまで忘れていたことです。しかし私の考えていたことには違いありません。
【私だって――】
教員であったころの一番の願いは、
「大人になった時、“だれに言われたか忘れちゃったけど、自分はこういう言葉を大切にしている”と誇り高く言えるような一言を子どもの心に撃ち込みたい」
というものでした。自分の姿が残るようではダメなのです。
その意味ではまだまだですが、生徒の心に残る言葉がふたつもあったことに、やはり大きな満足感と安心感がありました。
“私だって、けっこういい仕事をしてたんだ”
そんなふうに自分を慰め、ちょっと自信をもって帰路についた同窓会です。
ちなみに、私が担任をしていたのはちょうど今の彼らと同じ40歳のときでした。そのことを伝えるとみんなびっくりします。
「その年齢で、オレたちみたいな難しい連中を40人もあつかっていたのかァ」
ということです。その通りですね。