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「マルハラ騒動、事の顛末」~メディアの罪、若者も捨てたものじゃない

 LINEなどで句点をつけると若者が怯える「マルハラ」問題。
 メディアはおとなたちに猛省を促したが動かぬ人もいる。
 俵万智はやんわりと反論し、
 当の若者たちからは強い疑念が示される。
という話。(写真:フォトAC)

【若者はおとなに脅かされている(らしい)】

 事の始まりは先月6日の産経新聞の記事、『文末の句点に恐怖心…若者が感じる「マルハラスメント」SNS時代の対処法は』でした。
 それによると、
 LINE(ライン)などSNSで中高年から送信される「承知しました。」など文末に句点がつくことに対し、若者が恐怖心を抱く「マルハラ(マルハラスメント)」が注目されている。若者は文末にある句点が威圧的に感じ、「(相手が)怒っているのではないか」と解釈してしまう傾向にあるという。専門家は、メールに長く親しんできた中高年とSNSを駆使する若者との間をめぐり、SNS利用に対する認識の違いが影響していると指摘する。
らしいのです。

 若者はSNSで改行しても文頭の一字下げもしない、文の終わりで句点(。)を打つこともしない、そうしたSNSの基本をわざと外して句点(。)を打つのは、そこに特別な思い(通常は怒り)を表現するための仕掛けであり、だから年長者からもらったメッセージでもマルがあると本能的な威圧を感じ、恐怖心を抱くというのです。ではどうしたらいいのか――。続きを読むと、
 若者のSNS利用に詳しいITジャーナリストで成蹊大客員教授の(中略)高橋さんは「(若者とやり取りをする際は)句点を除いてあげる。代わりに、『!』や笑顔の絵文字を1つ付けるといい」とアドバイスしている。
のだそうです。そこで私はキレます。

 みんながやるから字下げをしない、句点をつけない、そんな軽薄な文化にどっぷり漬かった超弱者(よわもの)を救うため、大のおとなが千年に渡って築いてきた日本語の表記を棄てて若者にすり寄らなくてはならない、そんなバカなことがあるものか、と私は思うのです。一字下げや句点を書かない新たな日本語は、そこまで尊重すべき価値があるのか。字下げ・句点をなくすなら、いっそ読点も濁点も半濁点もなくして文章表現を平安の昔に戻せばいいのだ。読めないぞ!

【万智ちゃんはやんわりと諭す】

 同じニュースに接しても、頭に血がのぼると訳の分からなくなる私と違って、翌々日の2月8日、歌人俵万智さんはおとなにふさわしいやんわりとした口調で抵抗します。
俵さんはXで「句点を打つのも、おばさん構文と聞いて…」と切りだし「この一首をそっと置いておきますね~」とポスト。「優しさにひとつ気がつく×でなく○で必ず終わる日本語」と歌った。
(2024.02.08 日刊スポーツ(俵万智さん「句点を打つのも、おばさん構文と聞いて…」認識違い生まれる「マルハラ」で一首投稿
 ちなみに「おきますね~」もわざと若者表現に寄せて皮肉った表現のようです。
 勝負あり。
 「マルハラ」で仮に若い人たちが傷ついたとしても、安易におとなが譲歩して従うべきではないのです。傷つきやすい若者こそ恐怖心を克服し、日本文化を守るようにしなくてはなりません。

【若者だって捨てたものじゃない】

 と、これでは話は終わったかのように見えましたが、先週土曜日(3月2日)に至って、注目すべき別の記事が出てきました。
 マネーポストというサイトの、
『「若者批判の印象操作では?」“マルハラ”報道にZ世代から苦言 「句点にネガティブな意味を持たせるのは同世代間限定」「若者だってTPOを心得ている」』
です。
 代表的な発言を拾うと、

  • 僕や友人の感覚では、“マル”だからなんでもかんでも怖いというわけではない。就職活動で企業の方と連絡を取る際には、当たり前ですが句点を使ったメールを打ちます。保護者世代の人、バイト先の目上の人からLINEをもらった時にマルがついていても、そうした関係性のなかでのやり取りなので“怖い”とか“冷たい”とは解釈しません。
  • マルに冷たい印象を感じることも確かにありますが、それは普段からインスタのDMやLINEで短文のやり取りをしている同世代同士の会話に限られるものだと思います。
  •  最近、この“マル”の話題でSNSが盛り上がっていますが、若者がバカにされているような印象を受けました。若者だってTPOぐらいわきまえていますし、それを使う相手の気持ちを感じ取ることができます。

 そりゃそうだ、と私も思います。
 世の中は、社会の最も弱い部分に合わせて制度や態度・風潮などを変化させようとしてきましたが、「十把一からげに“弱者”の烙印を押されるのは困る」という立場も当然あるわけです。
「望んでもいないのに保護され丁寧に扱われるのはバカにされているのと同じだ」と感じる独立不羈な精神ももちろんあります。

 文化というのは過去と現在の衝突の中から生まれてきます。過去が強靭ならその分、現在も強靭にならざるを得ません。新しいものを大切に考えてなおかつ育てようとしたら、安易に妥協してはいけないのです。

【ちょっととぼけた人の話】

 ところで上の記事が出た3月2日の翌々日、日刊スポーツにこんな表題の記事が出ました。
尾木ママは元国語教師だけど「マルハラ」対策済み「僕は寄せるの」句点なしに順応しスタジオ驚く
 記事の中で尾木先生は、
「ネットの文章でしょ。LINEの。だから常識から外れてていいのよ。『。』つけていいのよ。ちょっと上の世代と、今の人が合わないだけよ」
と常識を示しながらも、
尾木氏自身は「僕は寄せるの、若い人に」と句点を使ってないといい「TikTokもやってるし、寄っていくのよ。『。』なしよ」と明かすと、スタジオからはどよめきが起こった。
 私も記事を読んでコンピュータの前で、ひとりでどよめきました。