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「ダイヤモンドは傷つかない」~水曜日のカンパネラの詩羽をどう扱うか③

 個性という言葉は安易に使われ過ぎる。
 真の個性は守られるべきものではなく、鍛えられるべきものだ。
 偽の個性は、早い段階で本物と置き換えられる必要がある。
 いずれの場合も、社会に出るまでの間、それは教師と親の仕事である。
 という話。(写真:フォトAC)

【個性とは何か】

 坂本金八先生の真似みたいですが、
 「古」という感じは髑髏の象形文字で、「古い」という意味と同時に「硬い」という意味があるそうです。その「古」を国構えで囲ったのが「固」で、人偏をつけて人に寄せると「個」という字が出来上がります。個性というのはひとの中にあって《髑髏を固めたほどの硬さ》を持つ《心の生き方(性)》を言うのです。
 
 私はクラシック音楽には疎いので古い例を出しますが、かつてロシアからスタニスラフ・ブーニンという天才ピアニストが現れた時、人々はこぞってその個性的な演奏をたたえたものです。その様子はWikipediaに次のように書かれています。
 ピアノコンクールとして非常に高い権威を誇るショパン国際ピアノコンクール(開催地:ワルシャワ)の第11回大会(1985年10月1日~21日)を19歳の若さで優勝した際の様子がNHKの特集番組「NHK特集 ショパンコンクール'85 ~若き挑戦者たちの20日間~」で放送されたことが発端となり、日本において「ブーニン・フィーバー」などと呼ばれる現象が巻き起こり、クラシック音楽ファンの裾野を広げるきっかけとなった。ブーニンの演奏解釈は、専門家の間においてはどちらかというと異端的と評され、ピアノ界においては主流のものとはみなされなかったが、非常にメリハリの利いたキレの有る彼の演奏は、これまでクラシック音楽に疎遠であった人々の間においても大いに歓迎された。
 私もこの番組でブーニンを知ったのですが、そこには修正されても修正されて決して常識の枠に収まらず、それどころか叩かれるたびに強靭になって輝きを増す《独特の癖》、それを追及する若きピアニストの姿があったのです。個性というのはそういうものです。
 昨日、今日、床屋に行ってツーブロックにして、これがオレの個性だのはチャンチャラおかしい話です。チョンマゲにして来たら考えてもいいですが――。

【好機:教え子の追跡調査の可能性】

 小学校か中学校の担任教師として、自分のクラスに水曜日のカンパネラの詩羽(うたは)を迎えたら、私はものすごく幸せだと思います。
 中学校で10年間、小学校でも10年、学級担任としてのべ500人くらいの子どもを見てきましたが、稀有な才能と言えば東大もしくは医学部(ほぼ同等と考えています)の合格者が1名、芸能人としていちおう飯の食えている者が1名と、その程度です。直接の教え子でなければオリンピアンが一人いますが、スターと呼べるような存在を間近に見たことはありません。
 
 詩羽が自分のクラスにいればその才能が育ってく過程をつぶさに観察し、有名人ならメディアを通じて卒業後も継続的に追跡できます。教師は通常、教え子の追跡調査もアフターメンテナンスもしませんから、絶好の機会です。それだけに詩羽を自分のクラスに得たとなると、それだけでも心が浮き立ってきます。
 しかし一方で、あんな左右後頭部刈り上げの、蛾眉・吊り上げシャドーの唇ピアスの子を、どう扱ったらよいのか、それはそれで大問題です。私はあの外見を、指導するのでしょうか?

【鷹は爪を隠す】

 義務教育の範囲だったら、私はおそらくあの異装を可能な限りやめるよう説得し、指導することと思います。高校以上で話が合わなければ転校してもいいですし、いざとなれば行かなくてもいいのです。しかし義務教育は違います。義務教育の学校は7歳から15歳までの児童生徒が必ず行かなくてはならない、変更できない場所であり、《公平》に最大の価値がある場です。自由競争と才能争いの修羅場である芸能界とは相いれないのです。

 児童生徒として義務教育の学校に居続けるなら、「わがクラスの詩羽」にはその間、最優先で《公平原則》に従ってもらわなくてはなりません。異装のままで登校すれば余計なトラブルに巻き込まれ、時間もエネルギーも精神的な問題も大量に引き受けなければならなくなります。
 自分も自由にしたい同輩や先輩の中には、猛烈な嫉妬心と敵愾心をもって向かってくる人も出てくるでしょう。エコヒイキをしないことをいつも示していなければならない教師たちの中には、学級担任でもないのに指導に入る人も出てきます。学校の詩羽の前を《見ないふり》して通り過ぎ、自分のクラスの指導に入るのはやはり難しいのです。
 これらすべては本質的ではない余計なトラブルの種です。真に才能を磨かなくてはならない時期に、つまらぬことに足元をすくわれるほんとうにバカげたこと、「能ある鷹は爪を隠す」と言うじゃないですか、自らの能力を守るためにくちびるピアスくらいはずしたっていいじゃないか、髪ぐらい黒くしておけと――おそらくそんな言い方をするでしょう。私は《学級の詩羽》の外見や態度を改めさせようとします。しかしそれで個性が失われたり才能が押しつぶされたりしたらどうするのか――。

【ダイヤモンドは傷つかない】

 私はこの点には強い自信を持っています。《ダイヤモンドは傷つかない》のです。
 私のような凡庸な田舎教師の圧力で消えてしまうような個性など、個性とは言えません。初めに書いたように、ブーニンの個性は押さえれば押さえるほど、叩かれれば叩かれるほど、鋼のように強くなって輝きを増すのです。
 私が潰せるような偽の個性や才能は、都会に出てその道の専門家たちと渡り合えば、ひとたまりもありません。おまけに相手は教育者ではないので配慮などなく、一瞬にして完膚なきまでに潰してしまうでしょう。真の才能なら《芽むしり仔撃ち》、将来ジャマになりそうなものは若いうちに殺しておこうとするはずです。
 それに負けないためにも、本物の個性や才能なら隠し、鍛え、偽の個性や思い違いは早いうちから現実に向い合せてやるしかありません。その仕事は、時間をかけて計画的に鍛えたり、諦めるにしても軟着陸の準備のできる、私たち教師や親たちの仕事です。
 
 私はクラスに詩羽を得たことを無上の喜びとしながら、あんな服装や化粧を決して許したりしません(もちろん《許さない》は私の心構えの問題で、うまく行くとは限りませんが)。
(この稿、終了)