カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「やがてすべては戻ってくるだろう」~妻、シンプルライフをめざしてみる④

 妻は調理用具のほとんどをしまい込んで、
 極めて単純な生活(シンプル・ライフ)を始めようとしている。
 しかしものや道具はそれ自体が家庭の文化なのだ。
 特別な理由がなければ、文化革命は進まない。
 という話。(写真:SuperT)

【一方の極み】

 弟は、これも今年から勤めを辞めて年金生活はいった初老人なのですが、私とは決定的に違って子どものころからの整理魔、鉛筆立ての鉛筆の丈もそろっていないと気が済まない性質の人間なのです。
 その弟がこの10年あまり、断捨離とシンプルライフにハマって家じゅうのものを整理整頓して、地球に優しい生活を目指しています。おかげで「可燃ごみ」でさえ月に一回。プラゴミも月一回。最初からゴミを出さない買い物をすると、そういうこともできるらしいのです。退職して時間のできた今は、古い写真の類を整理し始めたと言います。
 
 そうした弟の目から見ると母の家などは典型的な「ゴミ屋敷」。そこで実家の断捨離にも精を出すようになるのですが、それは90歳を過ぎた母には「生前遺産整理」みたいに感じられるようで、《お願いだから》と頼み込んでやめてもらうことにしました。
 
 「すべての問題は程度問題」ですから、行き過ぎた蒐集(収集)癖も行き過ぎた断捨離も、どちらも病気のようなものです。掃除のカリスマ、片付けの元祖 “こんまり”こと近藤麻理恵さんも、三人の子どもが生まれてから部屋が散らかることを苦にしなくなったといいます。整理整頓は幸せのためにやるもので、そのこと自体が重荷で苦しくなるなら、ある程度は諦めなくてはならないという、極めて筋の通った、健康的な考え方です。

シンプルライフとは何か】

 めざしたことがないのでよく知らないのですが、「シンプルライフ」とは、「無駄な物を削ぎ落とし、自分が本当に必要な物・好きな物だけに囲まれて過ごす生活スタイルのこと」と定義されるみたいです。
 一見、定義もシンプルのように見えますが、私のような人間にはそうではありません。
 「自分が本当に必要な物・好きな物」が何であるのか、そこが明らかでないと捨てるものと拾うものの境界が分からないのです。
 
 近藤麻理恵さんの片づけ理論の核心もそこで、ひとつひとつのものに対して、それがときめきを感じるものかどうか、抱きしめるように問いかけるのです。その上で「これはときめく、重要なものだ」と感じれば残す、そうでなければ廃棄すると、そんなふうに仕分けていく――。
 ところが世の中には、それでできる人とできない人が、おそらくいるのです。

【妻が自然にシンプルライフを始める日】

 一度試したのですが、突き詰めれば、私は自分の持ちものの一切に、ときめくことがないのです。全部なくてもいい。
 では《全部なくていい》なら全部捨てられるかというと、それもまた違うのです。捨てるためには別に《捨てる理由》がなくてはなりません。家が手狭で入りきらなくなったとか、死期が近づいて死後の片づけを家族に任せるのは忍びないとか、緊急に資金が必要となって売れるものは売って金にしなくてはならない、とかいった理由です。
 私にはそれもないのです。
 
 問題は妻の台所用品です。
 果たしてあの雑多な調理用具・食器は、妻の胸をときめかせることができるのか、できるとして、そのときめく物品の数は全体の何割程度なのか――。そう考えると、たぶんこれもゼロなです。
 あの道具たちは一回の食事に5種類以上の料理を瞬時に出すために必要なものであって、必要がなくなれば劇的に減らせるものです。おそらく夫である私が死ねば自分一人のためにあの面倒くさい食事を用意することはありませんから、ものもなくなります。
 逆に言うと、私が生きている際中であっても、妻が調理用具を投げ捨てると、あの豊かな食生活もおそらく維持できない、ということになります。

【やがてすべては元の場所に戻ってくるだろう】

 私はもともと食通でもなければ、豪華さを楽しむタイプでもありません。結婚したときはむしろ種類や量が多すぎて困惑したほどです。
 知らない食べ物も多く、食べる順番も分かりませんでした。ですからこの先の食卓が一汁一菜のような単純なものになっても、私は少しも困らないと思うのですが妻はどうでしょう? 一汁一菜などゆるしてもらえない家庭で育ってきて、それで納得できるものなのでしょうか――少し様子を見ていましょう。
 私の予想は、すべてが元に戻ってくるです。