カイト・カフェ

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「夫婦役割分担の代償と、育て直しの話」~かくも厄介な人生の終末② 

 夫婦は一対一体のものであって互いに補うべきものだ、それはいい。
 しかし役割分担をしっかりとして30年も過ごすと、
 分担しなかった部分のスキルは著しく低下する。
 人生の終末期、互いの弱い部分を補強し合わなくてはいけないのだが――、

という話。

(写真:SuperT)

【来月、私はここにいない。そして帰ってこないかもしれない】 

 4月の初めのことだったと思います。
 一日おきに家の周辺を歩く30分のウォーキングの際中、ある畑で熱心に農作業をしている老人を見かけました。老人と言っても私とあまり変わりない年頃の、白髪の人です。
 私は「隣り百姓」ですから、誰かが早めの作業をしていると気になって仕方がありません。そこで、
「今は何の作業をしてるんです?」
と声をかけます。話を聞いて、必要なら後追いをしなくてはなりません。
「ジャガイモは植えたからね。今はキュウリの準備をしている」
 ジャガイモは私も植えたばかりで納得できるものですが、キュウリの露地栽培はまだずっと先。4月初頭では早すぎます。
「ジャガイモはやりましたが、キュウリはまだ一カ月以上も先の話じゃありません?」
 するとこんな答えが返ってきたのです。
「そうなんだけど、そのころ私はここにいないんだよ。そしてたぶん帰って来れらない。だから女房が苗さえ植えればいいように、準備だけはしておこうと思ってね」

 まさかその歳で離婚もないでしょうし、離婚だとしても別れる妻のために畑をつくっておくということもありそうにない――。
 思いがけずたいへんな話に首を突っ込みそうになり、私は慌てて、
「疲れすぎないように、頑張ってください」
などとお茶を濁してその場を去りました。中途半端に病気の話を聞いても中途半端な応援しかできず、切羽詰まるのは目に見えています。


【木々はどうする畑はどうなる】

 定年退職になった夫に調理や洗濯の仕方を教え、万が一自分が先に死んでも困らないようにしている妻、そういう話は聞きます。しかし平均寿命を考えればはるかに“早く死ぬ可能性”の高い夫の方が、自分が死んだ後のことを考えて妻に何かを教えたという話はトンと聞きません。普通の男性は家に専任の仕事を持っていないのでしょうか? ――たぶんそうなのでしょうね。

 私は違います。妻に教えなくてはならないことがたくさんあります。例えば庭木の整理。
 およそ30年前に家を建てたころは市が地域の緑化に熱心で、一定額を越えて庭木を植えたり生け垣をつくったりすると補助金が出る仕組みがありました。我が家は申請するほどでもなかったのですが、それでもけっこうな数の樹木を植えて、毎年、手入れにかなりの労力をかけています。
 困ったことに樹木というのは幹の太さに応じて枝を広げるもので、最初の10年間に伸ばし放題に伸ばした木々は、その後どんなに刈り込んでも翌年になるととんでもなく大きく腕を広げてしまいます。
 私の亡き後、妻はこれをどうするのでしょう?
 もちろんお金をかけて毎年庭師に頼めばいいのですが、妻はそういうことに金を使える人ではありません。

 世話と言えば、困ったことに私の家には付属の畑まであります。父の買った土地ですが、前の持ち主が畑を宅地に造成した際、条例上どうしても切り取らなければならなかった三角形の畑が残ってしまいました。それを父に泣きついて買ってもらったのです。広さは1a(アール:正方形だと10m四方)ほどで、農業というには小さすぎ、素人の家庭菜園としては大きすぎる広さです。
 家を建てて30年近く、この畑は我が家に新鮮な野菜を提供してくれました。しかし私の死んだあとは誰が管理するのか――。

 妻には吸血鬼の血が流れているらしく、日が昇ったあとの屋外では作業ができませんので、ミニトラクターに触ったこともなくマルチシートのかけ方も知りません。キュウリもナスもピーマンも、それぞれ余計な枝を詰めて仕立てるルールがあるのですが、それも知りません。玉ねぎはいつ植えていつ収獲するのか、ダイコンの収穫の時期はどうやって見定めるのか、妻が学ばなくてはならないことはたくさんあります。


【夫婦役割分担の代償と育て直し】

 妻は料理に堪能な人です。したがって結婚以来34年間、私の調理スキルはまったく成長しませんでした。もっともご飯が炊けて味噌汁がつくれますから、あとは冷凍食品で何とかなるでしょう。いつだったかスーパーマーケットで冷凍食品と総菜コーナーをぐるっと見回り、これなら冷凍・総菜それぞれのコ-ナーの端っこから、一品ずつ買って食べて行っても2か月は困らないなと安心したことがありました。ただし甚だしく不経済なことも確かです。
 34年間、買い物も妻の仕事でしたから、私は世間の相場というものがまったく分かっていない。ろくでもないところで細かく高いものを買わされ、全体としてはけっこうな損を出すことになるかもしれません。もっとも損をしたかどうかも理解できませんから、問題がないと言えばないのかもしれませんが――。

 逆に妻の方がほとんど身につかなかったスキルに、コンピュータがあります。困れば隣りにいる私、またはLINEで私に問い合わせれば返事は間もなく来ます。私もそれほど詳しいわけではありませんが調べることは好きなので、答えを導き出すのは早く、苦にもしません。
 しかしその「コンピュータの打ち出の小づち」がいなくなったら、妻はどうするのでしょう。今でも恩着せがましく言うと「だったら諦める」とか言っていますが、つい先日のように単純に“ネットが繋がらなくなった”という状況では、諦めるわけにも行かないでしょう。

 ネットが切れたら最初に調べることは、ルーターのプラグが抜けていないかという、もっとも基本的な可能性です。抜けていなかったら今度はコンピュータやルーター、ONU(光回線の終端装置)を再起動することです。
 ところがコンピュータの再起動は分かるものの、ルーター、ONUの再起動と言われると初めての人間はどうしたらいいのか分かりません。単純にプラグを抜いてしばらく待ち、そのあと差し戻すだけのことだと知っても、動いている電子装置のプラグを外すなど、怖くてできることではありません。コンピュータのプラグを抜いてはいけないということは、この世界に足を踏み入れた時からしつこく言われてきたことです。

 私が死んだあと、たったそれだけの作業ができず、妻はネットショッピングや情報検索を諦めてしまうのでしょうか?

 “愛している”などと思ったこともない妻のことですが、あれもこれもできず、畑は雑草園、庭は荒れ放題、おまけにコンピュータの前でイライラしている姿を思い浮かべると不憫です。
 なにか考えなくてはいけません。私はどうしたらよいのでしょうか。

(この稿、続く)