カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「面倒くさい人生を送る人」~学校の勉強が役に立つかどうかなんて、わかるわけじゃないない

 なぜこの人はいつも誰かに絡まないと生きていけないのだろう
 ――そんなふうに思える人がいる。
 いまさら「学校の授業で役に立たなかったものは?」
 などと訊いても、なんの意味もないじゃないか。
 という話。(写真:フォトAC)

古市憲寿の絡み酒】

 以前もお話ししましたが「人志松本の酒のツマミになる話」という番組が好きで、毎週金曜日の放送を楽しみにしています。ところが先週の放送はまるで面白くありませんでした。さっぱり気分が乗らないのです。原因は明らかで、ゲストが良くありませんでした。

 酒瓶ルーレットで選ばれた出演者が順番で話題を提供し、酒を飲みながら皆で話をする番組で、
「私はこうだったが、皆さんはどうですか」
という形で会話を進めるのがルールです。先週の話題のひとつは近藤千尋というモデルの提出した、
「皆さんは仕事でうまくいかなかったとき、家でパートナーにどう声をかけてほしいですか?」
というものでした。
 しかしそもそも仕事を家に持ち帰らないという人も多く、ダンス・ボーカルグループの三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBEのELLYという若者(ナンカ肩書、長いなあ)も、気持ちを引きずることがないと言いつつ、落ち込んだ時に解決法を語り出したのですが、その時すかさず、
「単細胞?」
と声をかけた人がいます。社会学者の古市憲寿です。それを聞いた松本人志も「質の悪い常連客(といったふう)やなあ」とまぜっかえすのですが、私も何か筋が違うように思いました。会話の途中でこんなふうに一挙両断に断たれたら怖くて次の言葉が出せないからです。

 番組中盤で古市憲寿自身に話題が降られたとき、投げかけたテーマが「学校の授業で、役に立たなかったなというものは?」でした。それに対して再びELLYが「そろばんはやっておいてよかった」と語ると古市は「何に生きているんですか?」と絡む。
 ELLYが「例えばコンビニに行って、おつりはだいたいこのくらいだなって出して、あとは募金入れようとか」と言い終わらないうちに、「今どき電子マネーでいいじゃないですか」と一刀両断。ここでも松本人志が「酒グセわるっ!」と周囲を笑わせてその場を凌ぎました。
 見取り図の盛山晋太郎が「絡み酒やん」と軽くいなし、近藤千尋が「絡まれたくないよう」と苦笑いしてその場は終わりです。
 しかし飲み会の席にこんな「絡み酒」が一人でもいると、会話は楽しいものになりません。それが先週金曜日の番組のつまらなさの直接の原因でした。

【ああ言ってもこう言っても、こう答える】

 世の中には、人間と人間の関係を力関係という尺度でしか計らず、会話が勝負事でしかないという人がけっこういます。年じゅう心の中で周囲の人間の序列を組み替えたり、狭い範囲ではとりあえずマウントを取っておこうとしたりするタイプです。
 古市憲寿の投げかけたテーマ、「学校の授業で、役に立たなかったなというものは?」も、自身の経験としてすでに子どものころ、体育の授業は自分の人生には必要ないと判断して常に見学だった、「さっさと見切りをつけた」という話で、うっかりすると気づかないのですが、
「自分は小学生のころからそうした合理的な人生を送ってきた。皆さんはどう?」
ということなのです。

 松本人志が、
「じゃあ、跳び箱とかも全然やらなかった?」
と訊ねると、
「跳び箱、できないですね。あれ、意味あります?結果的に」
 この「意味ありますか?」と「役に立っていますか?」が古市のよって立つ立場です。したがって、
「高いの跳べたら、ヒーローにもなったし!(だから意味があった)」
「結果的に、それが今、役立ってます? 跳び箱の能力が」
「『跳び箱、跳ぶぞ』の、過程までの心の強さがためになったりするんじゃ…。『乗り越えるぞ!』みたいな」
と言えば、すかさず
「役立ってます?それ」「(お笑い賞レース)『THE SECOND』っていうのに出なかったんですよね? 跳び箱、役立ってないじゃないですか」「そう、逃げた」
とのしかかってきます。
 そしてそのあと出てきたのが先に紹介した「今どき電子マネーでいいじゃないですか」なのです。

【面倒くさい人生を送る人】

 これは出演者が飲んでいるから分からないのか、分かってはいるものの放置した方が古市の人柄の悪さが分かって面白いからそうしているのか判断がつかないのですが、そもそも学校教育を現在から振り返って「役に立つか立たないか」「意味があるかないか」で分けようとすること自体が無意味で愚かなのです。将来、役に立つか立たないからわからないから、あんなにたくさんの学習をしなくてはならないのですから。

 もちろん一生使わないことが明らかであれば、高校教育の微分積分だとかベクトルとか、摩擦係数だのベンゼン環だのはやらなくてもかまわないでしょう。しかし義務教育の段階で学習内容の必要・不必要を的確に判断するためには、時計を江戸時代に戻して徹底的な身分差別でも構築し直さないと無理です。将来何が必要になるか、何が好きになるかなんかわからないじゃないですか。
 さらに数学が嫌いなばかりに文系に行ったのに、うっかり「急に経済学が必要になった」「心理学を学ぼうという気になった」といったことがあったりすると、とつぜん嫌いだった数学の必要性が立ち上がって来たりします。化学嫌いが建築科に行ったら、シックハウス対策に化学式ばかり読むようになったということもあるかもしれません。
 
「学校の授業で、役に立たなかったなというものは?」
という問いかけはそれ自体が無意味です。答えは山ほどあってもすべて個人的なものであり、しかも取り返しがつかないからです。しかしそれにもかかわらず問わずにいられない古市憲寿、なかなか面倒くさい人生を送る人ですね。