自覚は薄いが私もずいぶんと老いた――ようだ。
シモーヌ・ド・ボーヴォワールと上野千鶴子が、
偉人でももう老人は役に立たないとガンガン責めてくる。
あの人たちですらダメなのだから、いわんや私をやだ
という話。 (写真:フォトAC)
シモーヌ・ド・ボーヴォワールと上野千鶴子が、
偉人でももう老人は役に立たないとガンガン責めてくる。
あの人たちですらダメなのだから、いわんや私をやだ
という話。 (写真:フォトAC)
【シモーヌ・ド・ボーヴォワールと上野千鶴子】
今月のNHK「100分 de 名著」はシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『老い』です。
ボーヴォワールについては「第二の性」の作者で、フェミニストで、実存主義哲学者で、そしてサルトルの生涯の同伴者だったということくらいしか知りません。
サルトルは私たちの世代――正確に言えばさらに上のいわゆる全共闘世代にとっては必読の人でしたから、必然的にボーヴォワールも知るところとなりましたが、私は不勉強で彼女の著作はひとつも目を通したことがありません。「第二の性」についても、知るのは冒頭の有名な一節「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」のみで、私自身が親になってからは、
「いやいやシモーヌ、男の子は男の子、女の子は女の子に生まれてくるぞ」
と思っているので、なかなか素直になれない相手です。
彼女の62歳の時の著作『老い』についても、題名すら知りませんでした。
一方、今回の「100分 de 名著」で指南役として招聘されたのは東大の名誉教授上野千鶴子先生、これまた素直に接するのは難しい相手です。
私は「セクシィ・ギャルの大研究」(1982年)という彼女の処女作を読んだことがあるのですが、まさかフェミニズムの本だとは思わず、題名にスケベ心を刺激されて買ってしまったものですから内容を知って絶句しました。(ただし根っからのケチですから、買った以上は最後まで読んでしまいました)。
再三お話ししていますが、私はケチ以外に人の名前が絶望的に覚えられないという弱点を抱えていて、7年ののち、上野千鶴子の名前に気づかないまま「スカートの中の劇場」(1989年)という本を買ってしまい、再びホゾを噛むことになります。このときもスケベ心を刺激されてのことでした。二度も引っかかったのです。
それでさすがに上野千鶴子の名前は覚えたのですが、本やテレビでたびたび出会う上野先生は、穏やかで響きの良い声でお話しするのに舌鋒は鋭く、論の運びが仕掛けだらけなので気が許せません。
今回の「100分 de 名著」でも案内役のタレント・伊集院光さんに向かって、
「日本では肉体的な老いは目・歯・マラから始まると言われています。(伊集院さん)マラってわかります?」
といきなり突っ込んできて伊集院氏を絶句させ、
「そんなことをこのNHKで言われるとは・・・」
と慌てふためいているとさらに、
「そちらの方は(年を取っても)大丈夫ですか?」
と畳みかけて、もうこれで半分は牽制に成功した――今流の言葉で言えばマウントを取ったようなものです。全く気が許せません。
この上野千鶴子先生が世界のボーヴォワールを扱うわけですからタダで済むわけがないのです。
ボーヴォワールについては「第二の性」の作者で、フェミニストで、実存主義哲学者で、そしてサルトルの生涯の同伴者だったということくらいしか知りません。
サルトルは私たちの世代――正確に言えばさらに上のいわゆる全共闘世代にとっては必読の人でしたから、必然的にボーヴォワールも知るところとなりましたが、私は不勉強で彼女の著作はひとつも目を通したことがありません。「第二の性」についても、知るのは冒頭の有名な一節「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」のみで、私自身が親になってからは、
「いやいやシモーヌ、男の子は男の子、女の子は女の子に生まれてくるぞ」
と思っているので、なかなか素直になれない相手です。
彼女の62歳の時の著作『老い』についても、題名すら知りませんでした。
一方、今回の「100分 de 名著」で指南役として招聘されたのは東大の名誉教授上野千鶴子先生、これまた素直に接するのは難しい相手です。
私は「セクシィ・ギャルの大研究」(1982年)という彼女の処女作を読んだことがあるのですが、まさかフェミニズムの本だとは思わず、題名にスケベ心を刺激されて買ってしまったものですから内容を知って絶句しました。(ただし根っからのケチですから、買った以上は最後まで読んでしまいました)。
再三お話ししていますが、私はケチ以外に人の名前が絶望的に覚えられないという弱点を抱えていて、7年ののち、上野千鶴子の名前に気づかないまま「スカートの中の劇場」(1989年)という本を買ってしまい、再びホゾを噛むことになります。このときもスケベ心を刺激されてのことでした。二度も引っかかったのです。
それでさすがに上野千鶴子の名前は覚えたのですが、本やテレビでたびたび出会う上野先生は、穏やかで響きの良い声でお話しするのに舌鋒は鋭く、論の運びが仕掛けだらけなので気が許せません。
今回の「100分 de 名著」でも案内役のタレント・伊集院光さんに向かって、
「日本では肉体的な老いは目・歯・マラから始まると言われています。(伊集院さん)マラってわかります?」
といきなり突っ込んできて伊集院氏を絶句させ、
「そんなことをこのNHKで言われるとは・・・」
と慌てふためいているとさらに、
「そちらの方は(年を取っても)大丈夫ですか?」
と畳みかけて、もうこれで半分は牽制に成功した――今流の言葉で言えばマウントを取ったようなものです。全く気が許せません。
この上野千鶴子先生が世界のボーヴォワールを扱うわけですからタダで済むわけがないのです。
【老醜を晒す人々――私とアインシュタインとチャーチル、マハトマ・ガンディ】
先週月曜日の第2回はサブタイトル「老いに直面したひとびと」で、タイトル画面よりも先に紹介されたのは、
「人が60歳を過ぎて書くものは、まず二番煎じのお茶ほどの価値しかない」
という言葉です。最初から嫌な感じです。
この一節はしばらく後で、さらに正確に引用されます。
多くの老人は、習慣から、あるいは生活のために、また自分の凋落を認めたくないために、書き続ける。しかしその大部分は次のベレンソンの言葉が真実であることを例証している。
「人が60歳を過ぎて書くものは、まず二番煎じのお茶ほどの価値しかない」
思わず、
「え? ボーヴォワールって私のブログの読者なの?」
と言いたくなるような話です。
私は習慣から、また自分の凋落を認めたくないために、おそらく毎日このブログを書いています。習慣を失うことが恐ろしいといった面もあります。そしてコロナの状況下で生身の人間、特に子どもと触れ合うことがほとんどないまま1年半を過ごして、内容がますます二番煎じとなっていることを十分理解しています。その感じは番組の中で紹介されたアンドレ・ジッドの言葉そのものです。
「自分が言うべきであると考えていたことのすべてをすでに言ってしまった。これ以上書けば、過去の繰り返しになることを恐れる」
社会に影響力のない私ですから「恐れる」ほどのことはないのですが、まったく新しい考えのように信じて書いたことを、20年も前の自分のブログ記事に発見したりするとほんとうにうんざりするのです。
もっともボーヴォワールが叩くのは私のような市井の老人ではなく、「老人の星」のように光り輝く偉大な人ばかりです。そしてその偉人を叩くことで、全老人を潰そうとしているかのように見えます。
「科学者においてもっとも重要な発見は25歳から30歳の人間によってなされており、数学においては、齢を取ってからの発見は、極めてまれ。要するに学者は40歳に達すればすでに老いている」
「年取った学者は、自分のおくれた考えを防衛するために、しばしば学問の進歩を阻害することを躊躇しない。彼の享受している名声が彼にそうする可能性を与える」
量子論を受け入れられなかったアインシュタインの晩年についても、
「その生涯の終わりにおいてアインシュタインが科学に役立ったというよりは、科学の進歩の邪魔になったことは事実である」
ボーヴォワールの手にかかるとチャーチルもガンディーも引き際を誤った愚か人ということになってしまいます。
こんな人たちがバカ扱いですから、私などいつの間にか蹴散らされた砂粒のようなものでしょう。問題外のさらに外――。
しかし『老い』を書いたときのボーヴォワールもすでに60歳過ぎ。番組で解説してくれる上野千鶴子さんも今年73歳。「60歳過ぎた人の文章は二番煎じ」と言いながらも、死ぬまでしゃべり続けた、そして死ぬまでしゃべり続けそうな人たちです。
このまま済むはずがありません。今夜の第3回を楽しみにしましょう。
ちなみに上野先生の年齢を調べていたら、なんと今日(7月12日)がお誕生日でした(1948年)。おめでとうございます(と言っても噛みつかないでくださいね。何を言っても怒られそうで・・・)。
「人が60歳を過ぎて書くものは、まず二番煎じのお茶ほどの価値しかない」
という言葉です。最初から嫌な感じです。
この一節はしばらく後で、さらに正確に引用されます。
多くの老人は、習慣から、あるいは生活のために、また自分の凋落を認めたくないために、書き続ける。しかしその大部分は次のベレンソンの言葉が真実であることを例証している。
「人が60歳を過ぎて書くものは、まず二番煎じのお茶ほどの価値しかない」
思わず、
「え? ボーヴォワールって私のブログの読者なの?」
と言いたくなるような話です。
私は習慣から、また自分の凋落を認めたくないために、おそらく毎日このブログを書いています。習慣を失うことが恐ろしいといった面もあります。そしてコロナの状況下で生身の人間、特に子どもと触れ合うことがほとんどないまま1年半を過ごして、内容がますます二番煎じとなっていることを十分理解しています。その感じは番組の中で紹介されたアンドレ・ジッドの言葉そのものです。
「自分が言うべきであると考えていたことのすべてをすでに言ってしまった。これ以上書けば、過去の繰り返しになることを恐れる」
社会に影響力のない私ですから「恐れる」ほどのことはないのですが、まったく新しい考えのように信じて書いたことを、20年も前の自分のブログ記事に発見したりするとほんとうにうんざりするのです。
もっともボーヴォワールが叩くのは私のような市井の老人ではなく、「老人の星」のように光り輝く偉大な人ばかりです。そしてその偉人を叩くことで、全老人を潰そうとしているかのように見えます。
「科学者においてもっとも重要な発見は25歳から30歳の人間によってなされており、数学においては、齢を取ってからの発見は、極めてまれ。要するに学者は40歳に達すればすでに老いている」
「年取った学者は、自分のおくれた考えを防衛するために、しばしば学問の進歩を阻害することを躊躇しない。彼の享受している名声が彼にそうする可能性を与える」
量子論を受け入れられなかったアインシュタインの晩年についても、
「その生涯の終わりにおいてアインシュタインが科学に役立ったというよりは、科学の進歩の邪魔になったことは事実である」
ボーヴォワールの手にかかるとチャーチルもガンディーも引き際を誤った愚か人ということになってしまいます。
こんな人たちがバカ扱いですから、私などいつの間にか蹴散らされた砂粒のようなものでしょう。問題外のさらに外――。
しかし『老い』を書いたときのボーヴォワールもすでに60歳過ぎ。番組で解説してくれる上野千鶴子さんも今年73歳。「60歳過ぎた人の文章は二番煎じ」と言いながらも、死ぬまでしゃべり続けた、そして死ぬまでしゃべり続けそうな人たちです。
このまま済むはずがありません。今夜の第3回を楽しみにしましょう。
ちなみに上野先生の年齢を調べていたら、なんと今日(7月12日)がお誕生日でした(1948年)。おめでとうございます(と言っても噛みつかないでくださいね。何を言っても怒られそうで・・・)。
(この稿、続く)