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「メディアは人間に期待しすぎている」~権威や権力がなくなることへの期待と不安②

 マスメディアは権威や権力を嫌う。
 嫌うあまりに無定見に反権力を支持したり、
 あまりに高い見識を人間に求めたりする。
 メディアは人間に期待しすぎているのだ。
 という話。(写真:フォトAC)

【マスメディアはあまりにも無自覚だ】

 マスコミは常に権威とか権力とか、強圧的な構造をもったものとその追従者を嫌います。政府のやることにはとりあえず噛みついておかないと始まらないし、弱者、例えば子どもの上に立つ者、幼稚園や保育園、学校に対する監視は常に怠りません。
(その割には長いものには巻かれる――ジャニーズや梨園、超大物政治家の醜聞には目を瞑るじゃないか、という問題はここでは扱いません)

 この3年間のコロナ禍においても、マスコミは政府の自粛要請に関して、黙って従う者よりも、隠れて営業したり強行突破したりする者の方に同情的だったように私は記憶しています。
 開いているパチンコ屋を求めて県境を越えて遊びに来る人たちを追いながら、メディアが非難したのはパチンコ屋でも来店者でもなく、店の前に並ぶ人々を撮影してネットに上げる、いわゆる「自粛警察」の人たちでした。

 強硬営業のパチンコ屋が千客万来なのは他が自粛してくれているからで、その意味で経営者はえげつなく、来場者にはあまりにも自制心がなく、「自粛警察」の正義も安っぽいものでした。ただしそれを取材して放送に乗せるマスメディアも考えもので、彼らは自分たちの倫理観に疑いがなさすぎる上、その立場と影響力になんの自覚もないらしいのです。

【ただやるだけではダメ、自主的でなければ意味がない】

 ただメディアも政府の要請に従わない方がいいと思っているわけではありません。日本国民が2020年春のパリの若者たちのように、ロックダウンの最中にもかかわらず、エッフェル塔の下で飲んで騒いで大統領を激怒させるような生きのいい存在であってほしいと思っているわけでもないでしょう。ただ唯々諾々と政府の指示に従ってはいけないと考えているだけなのです。
 彼らが望んでいるのは、“権威や権力、およびその他の圧力に屈しない独立した判断力をもち、自ら近代社会を構成しようとする、能動的で自立的な個人”、つまり「近代的市民」なのです。
 
 2020年春の東京では、始まったばかりのコロナ禍に際して、ほとんどの飲食店は営業を自粛し遊技場は閉じ、人々はうがい・手洗いを励行して外に出るときはマスクを外さず、できる限りみんなで三密を避け、静かに過ごそうとしました。
 ――それはもちろんすべきことでしたが、メディアにとって、政府から言われたからやる、ひとの目があるから仕方なくやる、ましてや「自粛警察」や「同調圧力」が怖いからやる、ではダメだったのです。権力や権威や雰囲気に強いられてやるくらいなら、いっそ何もしない方がいい――とまでは言いませんが、そう言いたくなるほどに人間の自主性・主体性というものを大事にしているのです。

【メディアは人間に期待しすぎている】

 ある意味でマスコミは人間に対する信頼が厚いとも言えます。すべての人間、少なくとも大部分の日本人は、そうした高みに到達することができて、自主的・主体的にものごとを判断し行動に移せるものだと信じているからです。
 しかし普通の教育者はそのように考えません。それはおめでたい考えだと思っています。
 
 確かに、中には自主的・主体的に正しい判断をし、行動に移せる人がいます。それもけっこう大勢います。しかしそうでない人だっているのです。
 「わかっちゃいるけど、やめられない」といった極めて人間的な人がたくさんいます。常に声をかけていないとすぐに忘れてしまい、良からぬ方向に進み始める人もかなりいます。あるいはいつも自分自身に手を焼いていて、法律や強権をもって押さえてもらわなければ望ましい行動がとれない人だっているのです。

 現実社会はそうした多様な人たちに対応できるよう、さまざま仕組みを用意してあります。法律はそうした仕組みのひとつです。したがってどんなに人間を信頼しても、”牽制しあわなくてもみんなが正しい行動が取れることを願って、「刑法」はすべてなくしてしまいましょう”、といった話にはなりません。

 教師もまた次のように考えます。
 人間はまだまだ未成熟で発展途上だ。だれもが道徳的に生き、正しい判断を重ねているわけではない。その最たるものが子どもで、だからこそ指導しなくてはならない。
 しかしマスコミはここでも、私たちと異なった立場からものを見ます。
(この稿、続く)