(エマヌエル・ロイツェ『王妃の座を追われるキャサリンと、公衆の面前で愛をささやく国王とアン・ブーリン』
このブログ、退職後の分が今日で1000日になりました。
「更新しました」というタイトルで紹介しているニュース批評のような記事は別計算で、他にもネット上に公開している記事はあるので、この5年間に書いたものは1000を優に超えていますが、最低1000は確実ということで、まずは自分を誉めておきたいと思います。
何にしろ、続けるということは大変なことです。
そこで記念に「千日」に関わるウンチクを並べてみたいと思います。私が比較的詳しく知っているものを最初にふたつ、あとは調べてお話しします。
【1000日のアン】
1969年、私が高校生になって外国映画を観はじめたころにドーンと出てきた歴史映画の題名です。主役のヘンリー八世をリチャード・バートンが、もう一人の主役アン・ブーリンをジュヌヴィエーヴ・ビュジョルドという、言いにくいぶん一発で覚えられる大変美しい女優さんが演じました。
ヘンリー八世は英国史上最も有名な国王のひとりで、6回の結婚とともにローマ・カトリック教会から分離して英国国教会を打ち立てたことでも知られます。
最初の結婚は急逝した兄の妻であるキャサリンを、政略的な理由で受け継いだもので、愛情の薄い関係だったと言えます。
キャサリンは死産や流産を繰り返す中で結局ひとり娘メアリーをもうけるにとどまり、それがさらにヘンリー八世を遠ざけることになります。当時のイングラドは政治的に難しい状況にあり、女王ではとてももたないと考えたヘンリー八世が、強烈に男児を望んだからです。
この段階で、私たちは1組の母子の名前を覚えておく必要があります。キャサリンとメアリーです。
やがてヘンリー八世は愛妾のひとりのさらにその妹に目をつけます。映画のもう一人の主人公アン・ブーリンです。しかし姉のこともあってアンは愛人となることを拒否し、正式な結婚を要求します。それは当時としてはまったく非現実的な話でした。
というのはヘンリー八世は離婚を認めないローマカトリック教会の熱心な信者であり、妻のキャサリンもカトリックの強力な守護者・スペイン王家の血を引いていたからです。
ここに歴史の大転換が起きます。ヘンリー八世は自らの離婚と結婚のためにローマカトリックと縁を切り、イギリス国教会を立てて自らその首長となったのです。その上でキャサリンを王宮から追放し、アンとともに暮らし始めます。
タイトルに使った「王妃の座を追われるキャサリンと、公衆の面前で愛をささやく国王とアン・ブーリン」はその場面を描いたものです。
アンはやがて子を産みますが、これも女の子でエリザベスと名づけられます。ヘンリー八世は落胆し、ふたりの間に距離ができます。政治にやたらと口を挟むため敵も多かったアンは、復権のためにどうしても男子を生む必要があったのですが、その後2度も流産。すっかり愛想を尽かした国王はアンに姦通の汚名を着せ、斬首にしてしまいます。その間およそ3年。アン・ブーリンが「1000日のアン」と呼ばれるのはそのためです
覚えておくべき2組目の母子は、そのアンとエリザベスです。
アンの処刑の翌日、国王はその侍女のジェーン・シーモアと結婚し、翌年、待望の男子が生まれます。エドワード王子と言います。ジェーン自身は産褥のためにすぐに亡くなりますが、これが3組目の母子、ジェーン・シーモアとエドワードです。
やがて3人の薄幸な王妃の子どもたちの時代が来ます。
1547年にヘンリー八世が亡くなると、王位継承権第一位のエドワードがわずか9歳で即位しまが、この新国王エドワード六世は病弱で、6年後には回復の見込みのない病気にかかります。
エドワード六世亡きあとは順番としてはメアリーなのですが、ここに大きな問題がありました。メアリーは母親ゆずりの頑固なカトリックで英国国教会を背負う気などさらさらなく、縁を切ってローマに帰依することは明らかだったからです。
再三説得してもローマへの忠誠をやめないメアリーを諦め、国王は遠縁の17歳の娘、ジェーン・グレイを後継に指名して亡くなります。遺言に従ってジェーン・グレイは即位しますがそれを聞いたメアリーも即位を宣言し、両者は対立します。その後短期間の紆余曲折を経て、抗争は民衆の力を得たメアリーが勝利し、メアリー一世が誕生します。
ジェーン・グレイはわずか九日間で地位を追われたために「9日間の女王」と呼ばれ、7か月後、大逆の罪を負わされて斬首されます。
昨年、上野の森美術館の「怖い絵展」で評判になった「レディ・ジェーン・グレイの処刑」に描かれた場面です。
目隠しをされた17歳の少女は、左手で自分の首を乗せる斬首台を探っています。
右の赤いズボンの男は手に斧を持ち、左では二人の侍女が顔を背けて嘆いています。
女王となったメアリー一世は予想された通りローマカトリックに復帰し、プロテスタントを弾圧して女こどもを含むおよそ300人を処刑と言われます。
「ブラッディ・メアリー」とあだ名され、今日もカクテル(トマトジュースで割ったウォッカ)に名を残しているのはそのためです。
そのメアリー1世もわずか5年で病死し、あとを継いだのがあの「1000日のアン」の娘、エリザベスでした。
過酷なメアリー一世のあとだったこともあり、生涯独身を貫いて英国のために尽くしたエリザベス一世は、今も最も理想化されている女王です。
その業績も含めて、一連の物語はどこを切り取っても調べたくなる面白い話でしょ?
【千日回峰行】
比叡山延暦寺の荒行のひとつ。私は1979年のNHKの特番で知ったように覚えています。
およそ7年に渡って繰り広げられる過酷な修行で、最初の3年間はそれぞれ100日、4年目・5年目が200日、京都の市内・山野を真言を唱えながら駆け回るのが中心となります。その距離約30㎞を6時間かけて毎日走るのだそうです。
5年間(700日)の修行が満了すると、最大の山場「お堂入り」が行われます。
行者は足掛け9日間(丸7日半)の間、飲まず食わず眠らず、横にならず、毎晩深夜に不動明王のための水をくむこと以外は、ひたすらお堂の中で真言10万回を唱えるのです。
飲まず食わずは何とかなるにしても、断眠・断臥は人間わざではありません
それが終わると6年目にはさらに距離が伸び、1日約60 km(100日)。7年目は修行200日を100日ずつに分け、前半は84 km におよぶ京都大回り、後半は比叡山山中を30 km、毎日走り続けて満了となります。
平安中期に始まって今日までに達成者はわずか51人。うち14人が戦後です。さらにこれを生涯2度行った人が3人もいて、そのうちのひとりが酒井 雄哉(さかい ゆうさい)という方です(2013年没)。NHKの特番で見たのはこの人の記録だったと思います。
私は学生時代、教員になるか僧侶になるか本気で迷った時期があり、千日回峰行を知ってからは自分にできっこないのに、激しく憧れました。そうしたストイシズムに対する思いは今もあります。
【千日手】
将棋において、同じ局面が繰り返し現れてしまうことを千日手と言うそうです。互いにそれ以外の手を打つと不利になるのであとに引けないのです。
4回同じ局面が現れた時点で千日手が成立するので、相手に「千日手ですね」と目で語りかけ確認し合います。それ以上は進展がないので、先手と後手を入れ替えて最初から打ち直します。
今年の3月8日、藤井聡太六段(当時)と師匠の杉本昌隆七段の公式戦初対局で、59手目にこれが成立して話題となりました。
【千日前】
大阪府大阪市中央区の町名及び地域名。
西隣の難波にある法善寺と竹林寺で千日念仏が唱えられていたことから両寺(特に法善寺)が千日寺と呼ばれ、その門前であることから千日前と呼ばれるそうです。道頓堀の南東に一帯で、演芸場や映画館などのある娯楽街となっています(行ったことないけど楽しそう)。
【千日念仏】
仏教で千日間の精進や修行をいうそうです。千日経(読経)・千日講・千日籠り・千日参り・千日念仏など。
【千日町】
鹿児島県鹿児島市内にそういう町名があるそうです。