「被災地支援の足を引っ張る」〜災害支援の経験とあり方 1

(ヨアヒム・パティニール「ソドムとゴモラの崩壊のある風景」)

 またまた先週の金曜日ですが、ある朝の情報番組で、“被災者の状況に配慮しない支援”といった内容を扱っていました。私には納得のできない話です。

【余計なものを送るな】

 まず出てきたのが被災地ではもう十分足りている紙おむつや簡易トイレ、夏だというのに毛布までもがどんどん送られてきて困っているという話。送られてくる物資の処理がいわば二次災害のように被災地を圧迫している、かつて災害に遭った自治体の中には余った支援物資の処理に数千万をかけたところもあったとかいった話です。

 もちろん司会者は「ほんとうにありがたいことですが」「善意から行われてのことですが」と恐縮しながらの進行ですが、私はその前の段階ですでにイラっとしてキレかかっていました。なぜならその前日の木曜日、他局だったと思いますが「トイレが足りない」「特に女性には大問題だ」という話を盛んにやっていたからです。

 「トイレが足りない」といわれて一人が10セットずつ、1000人で送ればあっという間に1万セットです。余るに決まっています。

 飲み水が不足していると言えば飲料水が何十万本も送られてくるし、掃除用具が足りないと言えばモップが山ほど届けられる、それが今の日本です。それでいいじゃないですか。

 余るのが怖ければ、「被災地では今、○○が不足して困っています」といった放送をやめてしまえばいいのです。

 それを毎日毎日何時間も使って被災地の困窮を放送し(そうして視聴率を上げ)、人々の同情や善意を煽っておいて、勝手にものを送りつけるなというのは失礼千万です。

 番組では被災地が必要なものを確認してから送る必要がある、などと言っていましたが実際にやってみればいい。確認して必要物資を手配し、ようやく送ったころにはその品物はもう溢れかえったりしています。被災地の状況は刻々と変わっている、それに正確に対応していくなんて不可能です。

 余ったら捨てればいい。

 善意の品物でも余れば捨てるしかないということ、これまでの経験から支援者だって百も承知です。捨てるために何千万円も税金が必要になるということだってそれは後の話。先々のことより今日の困難を解消する方がよほど大切だと思うのですが、一部マスメディはそうではないみたいです。

 緊急時に余ることと足りないこと、どちらが問題かなんて小学生にだって分かりるでしょ?

【ボランティアの横暴】

 もうひとつの“被災者の状況に配慮しない支援”として、ボランティアの横暴みたいな話も盛んにしていました。

 家の片付けにきたボランティアが泥に汚れた品物をどんどん捨ててしまう、中には思い出の品物もあるのに、とか、仕事のないボランティアが御用聞きのごとく一軒一軒家周りをし始める、こちらとしてはゆっくり休んでいたいのにそのたびに出て行って対応しなくてはならない、とか――。

 確かに由々しい問題ですが、同時にそれは「いま言うか?」みたいな話でしょう。まさに今、勇気を振り絞って立ち上がろうとしているボランティアに腰を下ろさせてどうする?

 そんなことは現地のボランティア説明会で確認し合えばいいだけのこと、よしんば数百人にひとりくらい、配慮の行き届かないボランティアがいたとしても、それは受忍すべき許容範囲です。ようやく支援活動が本格的に始まろうというとき、メディアが全国放送で声高に語るべきことではありません。

【新しい動き】

 支援物資やボランティアのミスマッチというのは、もちろんできるだけ少なくするよう努力しなくてはなりません。しかしそれをつかさどる現地担当者は殆どが初体験で、しかも多忙を極めていています。ミスマッチや不手際を怖れていては、何もできないからとにかく動き始めます。

 ところが最近、そんな被災地初体験に、新しい動きも出てきたみたいです。

                              (この稿、続く)