【震災の申し子】
父は大正12年(1923年)の6月に生まれ、平成23年(2011年)10月に亡くなりました。歴史的には関東大震災の年に生まれて、東日本大震災の年に死んだということになります。
生前、父はよく「関東大震災は3ヵ月で体験したが、あれはすごかった」などと申しておりましたがもちろん記憶にあるはずもなく、生まれた場所も東京からはるかに遠いところですから“経験”したかどうかもかなり疑わしいところです。
ただし88年後の東日本大震災のときは体も頭もかなりしっかりしていましたから、“あの世”で「あれはすごかった」と吹聴してもあながちウソとは言えないでしょう。
その父については、つい6年前まで生きていた人なのに、思い出として語ることがほとんどありません。それくらい疎遠でした。
【思い出のない人】
特に家庭内に事情があるとか仲が悪かったとかではないのです。とにかく単純に、近くにいなかった、いつもどこかに出かけていて家にいなかったのです。
普通の公務員で真面目な人ですから遊び歩いていたというのではなさそうです。ただ仕事が好きで、またすべきことも多く、当時の男性として当たり前のように家庭を省みなかった、それだけのことだったと思います。
土曜日の帰りも遅く、日曜日も特別なことのない限り仕事に出かけていました。
古いアルバムを見るともっと昔、私が幼少のころや生まれる前は、地域の運動会の仮装大会で出たり、雪山にスキーに行ったり、あるいはバレーボールの職員チームの監督だったりして、それなりに楽しんでいる様子がうかがえます。ところが私が小学校に上がったころ(父の年齢で言えば30代後半以降)、父の姿がアルバムからも私の記憶からも消えてしまうのです。
やがて私は少年から青年になり、高校を卒業して都会に出ます。
そこで12年暮らし、結局教員になって故郷に町に戻ったのですが、県内あちこちを異動していて実家にはいつかなかった、それでは父と疎遠になるのも無理ありません。
さらに悪いことに、私は物心ついたころからずっと“いい子”で、父を煩わせることもなかったのです。それに対して四つ年下の弟は赤ん坊のころからかなり “悪い子”で、それゆえ父との間にたくさんの軋轢があって、思い出も持っています。
喧嘩して3年も口をきかない関係だったのに年をとってからは随分そのことを悔いて、父を旅行に連れて行ったりあちこち食事に誘ったりと、かなりの孝行息子でした。父が亡くなったときには年甲斐もなく、嗚咽して涙を流していました、私は冷静だったのに。
そんなものでしょう。
そこから親子関係のについて重要なことが示唆されます。
親は存在するだけでは子どもに何の思い出も残さない、一緒に何かをしなければ心に何ひとつ残らない――そういう至極当たり前の事実です。
ただし、感傷的な思い出はないものの、よく考えると思い出す記憶がないわけではありません。そのひとつは私が二十歳になった年の秋、たまたま父が出張で都会に来た晩のことです。
(この稿、続く)