カイト・カフェ

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「私たちは障害者を見ても、それで優越感を持つわけではない」~『感動ポルノ』の不安と憂鬱③

 私はステラ・ヤングの「私は皆さんの感動の対象ではありません、どうぞよろしく」という講演自体に不満があります。

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 先ほどお見せした写真の目的は、人を感動させ、勇気づけ、やる気を引き出すことです。つまり、「自分の人生はうまく行っていないけれど、もっとひどい人だっているんだ」と思わせるためのものです。「あんな大変な人もいるんだ」と。
(中略)
 さきほどお見せしたような画像は、健常者が良い気分になれるように、障害者をネガティブな存在としてモノ扱いしています。自分の抱えている問題が大した困難ではないと、違う角度から見られるようにするためです。

 私はそうは思いません。ステラ自身の言葉を借りれば、
(私たちは)障害者の姿からいつも感銘を受けています。でもそれは、自分が彼らよりも恵まれているから感動するわけではありません。
と、そのように私も考えるからです。

 私たちが障害のある人たちの生き方に感動するのは優越感を刺激されるからではありません。最悪の場合でも、私たちが刺激されるのは贖罪意識です。

 科学や医学の発達につれて障害を持って生まれ育つ人は増加していきます。かつては助からなかった命が助かるからです。もちろん多くの命が助かることは人類にとって幸せなことですが、その陰に困難を背負う人たちがいるのです。
 困難は、ある一定の割合で子どもたちの元にやってきます。それを背負うか背負わないかはたぶん確率論的な問題でしょう。単なる偶然です。ですから背負わなかった人や家族は、背負った人たちに負債を負っている――少なくともそう感じる人は多いのです。
 ただし障害のある人の生きる姿に私たちが感動する主たる原因は、それが見え易いという、ただそれだけのことのような気がします。

 苦境にありながら健気に逞しく生きる人はたくさんいます。しかし多くの場合、丁寧で迂回的な説明でもないとよくわからないのです。
 例えば私はナイチンゲールマハトマ・ガンジーやアン・サリバンや坂本龍馬杉原千畝の伝記を読んだりテレビのドキュメンタリー番組を見たりして感動します。しかし感動に至るにはずいぶんと長い時間がかかるのです。とりあえず本を読んだり番組を見て勉強しなくてはなりませんし、複数の資料によって確認する必要もあります。これが市井の人だとさらに難しくなります。

 ところが障害者とか被災者とか何らかの事故や事件の被害者の場合、その困難と努力の物語を理解するのはずっと楽になるのです。ただそれだけのことです。
 楽だからマスコミが取り上げたがるという点には問題があるかもしれませんが、私たちの優越感とは何のかかわりもありません。それは私がナイチンゲール杉原千畝に対して優越感を持たないと同じです。

 ステラ・ヤングはまた、こんなふうにも言っています。
 私は、障害が例外としてではなく、ふつうのこととして扱われる世界で生きていきたいと望んでいます。部屋で『吸血ハンター 聖少女バフィー』を見ている15歳の女の子が、ただ座っているだけで何かを達成したと思われることのない世界に生きたいです。 朝起きて名前を覚えているだけで喜ばれるような、程度の低い期待をされることのない世界。そしてメルボルン高校の11年生が、新しい先生が車椅子に乗っていてもまったく驚かない世界で生きて行きたいのです。

 その苛立ちは分からないでもありませんが、だからといって障害者の生き方に心を寄せる人々に対して「感動ポルノ」といった言葉を投げつけるのはいかがかと思うのです。

 一昨日の11時過ぎ、寝る前にテレビのチャンネルを切り替えたらNHKが「72時間」という番組をやっていました。あと5分程度で終わるといった時間帯で、私が見たのはインタビューを受けた最後のひとりでした。場所は、よくわからないのですが、東北地方の入り口あたりにある大衆食堂といった感じのところです。

 30代と思われるガタイの立派な労務者風の男性が話をしています。見た目の通り復興事業に行っている人でした。
「自分たちの仕事はものが壊れてくれないと始まらない。仕事が回っていく上で何かが壊れてようやく仕事ができる。でもそれが、今みたいに誰かが亡くなった上に成り立っていると思うと気が引けるというか、後ろ暗いじゃないですか・・・」

 話はこのあと「けれど地元の人に感謝されたりすると、やりがいはある・・・」という方向に向かうのですが、私はとりあえず、建設業をそんなふうにとらえている人がいることに驚きました。
 何と誠実な思いでしょう。
 自分の生活は他者の不幸に上に成り立っている、そうしたことに痛みを持ちながら復興事業に当たる――それはこの人ひとりの感じ方ではないでしょう。人間というのはそういうものなのです。

 障害者の健気な姿を見て、「自分の人生はうまく行っていないけれど、もっとひどい人だっているんだ」と思ったり「あんな大変な人もいるんだ」と。
 ステラ。人間は決してそのようなものではありません。