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「この人を見よ」~パラリンピックに際して、子どもに何を語ってやるべきか

 7日水曜日(日本時間8日木曜日)からリオデジャネイロパラリンピックが開かれます。今回で15回目となるそうです。

 Wikipediaによると、
 元々、パラプレジア(Paraplegia、脊髄損傷等による下半身麻痺者)+オリンピック(Olympic)の造語であったとされる。 国際パラリンピック委員会によると、"Paralympic"の表記が最初に確認されたのは、1953年のイギリスの新聞の見出しであるが、その名称の由来は不明である。一方で、「パラ」+「リンピック」=「パラリンピック」という語呂合わせは日本人の発案で(個人名は不詳)、1964年の第13回国際ストーク・マンデビル車いす競技大会を東京で開催した際の「愛称」として初めて使用したものであるとされる
 また、
 IOCは、1985年パラリンピックという呼称を用いることを正式に認めるとともに[5]、半身不随者以外も参加するようになったことから、パラレル(Parallel、平行)+オリンピック(Olympic Games)で、「もう一つのオリンピック」として再解釈することとした。
ともあります。やはりこちらの方がしっくりきますね。

 さて、4年に一度のパラリンピックに際して、私たちは子どもに何を語ってやることができるでしょう?

「障害のある人たちでも、こんなに頑張っている(だからキミたちも頑張れ)!」
 いかにも大人の言いそうな表現ですが、言ったところで容易に「だから僕も頑張る」というふうにはなりそうにありません。オリンピックのアスリートたちもそうですが、少しぐらい頑張った程度では手が届かないのです。よほど間の抜けた子でない限り、その程度のことは気づいています。

「どんな場合も、目標をもって頑張るっていいよね」
――これは良い筋かもしれません。
 目標なんてその子の能力に応じて設定すればいいだけであって、何もオリンピックだのパラリンピックだのといった壮大な話しにしなければいいのです。身の丈に合った目標をもって生きることはやはり大切です。

 ただ、今の私だったらこんな言い方になると思います。
「この人たちをよく見て、よく覚えておこう、忘れないようにしよう。
 日ごろ私たちの目から遠いところにいてあまり気づかれないけど、障害のある人たちは世の中に驚くほど大勢いて、みな自分の人生を生きている。
 今日、パラリンピックリオデジャネイロに来ているのはほんの一握りのエリートで、力及ばず参加できなかったアスリートが大勢いる。いやそもそもパラリンピックなど望まないスポーツマンがたくさんいる。
 スポーツに興味のない障害者もいる、スポーツができないような重度の障害者もいる、つまり今テレビを通してみる障害者アスリートの背後には、何千万という障害を持った人たちがいて、みな固唾を飲んで勝負の行方に注目しているのだ。
 残念なことに障害者がこれほどスポットライトを浴び、華々しく注目されることはそうはない。だから今日のことをよく覚えていないと、私たちは世の中に障害を持つ人がたくさんいて、そうした人たちを含めてこの国やこの地球が成り立っていることを忘れてしまうのだ。悪気はなくとも、目に見えないものを意識し続けることは難しいからね。

 この人たちをよく見て覚えておこう。そしてその背後に何千万もの人たちのいることを想おう。
 そしてパラリンピックが終わったら、私たちに何ができるかを改めて考えてみるのだ。

 けれど今はだめだ。今は考える時ではない。熱を入れ、しっかり力を込めて応援する、今はその時だ」