「相模原事件の癒しがたいパラドクス」〜差別は深まったのか

 神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が殺され27人が負傷した事件について、横浜地検が植松聖容疑者を殺人など六つの罪で起訴したと新聞記事に出ていました(2017.02.24 毎日新聞「相模原殺傷 殺人罪などで植松容疑者を起訴 横浜地検」など)。

 今月20日までの鑑定留置で、自分を特別な存在と思い込む人格障害「自己愛性パーソナリティー障害」との鑑定結果が出ており、地検は集めた証拠と総合して完全責任能力があると判断した。

 事件当時、メディアは、
「経済効率最優先の風潮の中で、人の価値は“いかに効率的に社会の役に立つか”で測られるようになっている。そうした観点からみると重度心身障害者は抹殺すべき存在となる」
とか、
「異質のものは排除しなければならにという狭量な社会の風潮が変わらない限り、この種の事件は繰り返し起こる」
 とかいった声を拾い、相模原事件の背景に差別を容認する社会的風潮があることを強く印象付けました(例えば2016.08.02 毎日新聞「記者の目 相模原殺傷事件」)。
19人が殺害された相模原市の事件は障害者を狙った典型的な「憎悪犯罪」(ヘイトクライム)だ。特異な人間が起こした突発的な事件ととらえるべきではない。憎悪犯罪には必ずそれを容認する社会の闇が背景にある。

 差別をなくすことはジャーナリズムの重要な仕事です。それが結局差別は減らせず、むしろ深まった――そう主張するようではメディアの敗北でしょう。

 しかし実際、社会的差別はかつてより広がったり深まったりしたのでしょうか?

 

【学校が努力してきた】

 私はそう思いません。そうした考え方に強く抵抗します。
 障害者差別にしても民族差別にしても、あらゆる意味で差別問題は昔よりずっと良くなっています。差別をなくすことは学校にとっても重要な使命ですが、私たちも諸先輩方も後輩たちも、差別解消のために膨大な時間とエネルギーと知恵を使い、努力してきました。それで社会が悪くなるはずはないのです。

 少なくとも昔に比べたらはるかに差別のない社会を実現した――そう信じているからブログでも2回に渡って扱い(
「狂気のラスコーリニコフ」 - カイト・カフェ~、「モンスター」①- カイト・カフェ)相模原事件は一般化できない、特別な人間による特別なできごとだと言ってきたのです。

 それから7か月がたち、今回横浜地検は「自己愛性パーソナリティー障害」という診断を確定させたうえで、容疑者の起訴にこぎつけました。
 しかしその判断はさまざまに矛盾を生じ、軋み音を起こす決定でした。

 

【相模原事件の癒しがたいパラドクス】

 まず、植松容疑者は自らが「生きる価値がない」と主張した障害者の中に身を置くことになります。いわば仲間入りするのです。
 人格障害というのは簡単に言ってしまうと「通常の社会生活が困難なほどの性格のゆがみ」のことですが、それは知能や身体に課題を抱え「通常の社会生活が困難なほど」という意味でまったく同じです。
「自分が『生きる価値がない』として殺した範疇に、自分もまた属していた」
 この矛盾に植松容疑者はどう対処するのか、見て行きましょう。

 翻って私たちは、“植松容疑者の生きる価値”について考えを巡らさなければなりません。
 彼は人格障害を抱えた――その意味では間違いなく“障害者”です。障害がある以上、少なくとも理屈の上では彼を守らなくてはなりません。

 しかし一方で、彼は19人を殺害して27人を負傷させた犯罪者でもあるのです。その事実に照らし合わせれば当然、死刑が相当でしょう。

 しかしその犯罪の根には人格障害があるのです。
 うっかり「あいつは不幸しか生み出さないから死んだ方がいい」と言ってしまうと、まさに植松容疑者の論理にからめ取られることになります。

 彼は生きる価値がないのでしょうか? 
 守るべき存在なのでしょうか?

 難しい問題です。



*「人格障害」を「パーソナリティ障害」と言い換えるのは対象者が子どもの場合、「子どもに『人格』というほどの統一的なものはあるのか」といった議論を避けるためのようです。
 また、自己愛性パーソナリティー障害は10に分類される人格障害のひとつで、「自分は特別な存在だという肥大した自己意識」に囚われる障害で、容疑者が大島衆議院議長にあてた手紙とよく符合します。
 NHKのニュースでは「自己愛性パーソナリティー障害を含む複合的な人格障害」といった言い方をしてましたから、反社会性パーソナリティ障害など、事件を説明しやすい障害名は複数探せるでしょう。