カイト・カフェ

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「現場検証のすすめ」a 〜子どもたちの危機⑥

「心の理論(=心の理解)」は4歳から7歳までの間に獲得される――ということは小学校1年生ではまだ「他者には他者の思いがある」ということが理解できない子がいる、もしくはできても十分訓練を積んでいない子が多い、ということになります。したがってこの子たちには繰り返し「他の人には他の見方があるんだよ」ということを教えていかなくてはなりません。
 幸いそのためのネタはいくらでもあります。

 たとえば私の勤務する児童館でも「何もしてないのにA君が蹴ってきた」といった訴えは日常茶飯です。しかし「通り魔の館」ではありませんから普通は「何もしていないのに蹴ってきた」ということはありません。
 とんでもない些細な原因だったり自己中心的な動機だったり、あるいは信じられないくらいつまらない誤解からだとしても、そこには蹴るだけの理由があるのです。

 そこでまずA君を連れてきて、被害者B君の言い分を聞きます。
「で、A君、何もしないのに蹴ったってホント?」
 A君は言います。
「だってBが“バカ”って言ったんだもん」
「そう。それではB君、ホントに“バカ”って言ったの?」
「だって、Aが先生に言いつけるって言ったんだもん」
と、このあたりからだいぶ怪しくなります。話が複雑になりそうなので二人を“現場”に連れていきます。
「もう一度、聞くよ。ここでA君がB君のことを蹴ったんだね? どのくらいの強さで蹴ったの? 私がB君だと思ってやってごらん」
 もちろん子どもは遠慮します。しかし事実を明らかにする上ではとても大切なことだからと言い含めてやらせます。どうせ低学年の蹴りです。そう大したことはありません。
 私はここで初めてA君が後ろからB君を蹴ったことを知ります。
「B君、今のくらいのけりで良かった? もっと強かった?」
 B君は当然「もっと強かった」と言います。そこでB君が満足するまで何回でもやり直しをします。つまり私が蹴られるわけです。
「強さはこれで“よし”と。ところでA君はB君のうしろから蹴ったわけだけど、ということはB君は“バカ”と言ってからうしろを向いたところを蹴られたわけ?」
 そこでまた新しい事実が出てきます。B君が“バカ”といったのは蹴った集会室の現場ではなく、下足箱のところで言ってそのまま歩いてきたところ、あとを追ってきたA君がうしろから蹴ったのです。
 下足箱のところまで移動します。
「で、どの場所でどんなふうに“バカ”っていったの?」
 ここで分かったことは先に玄関に入って靴を脱ぐことに手間取っていたA君の耳元で、かなり大きな声で、しかもそうとうにいやらしい感じで“バ〜カ”とからかったということです。
 なぜ“バ〜カ”と言ったかというとその前にA君が「先生に言いつけてやる」と言ったからであり、それはその直前にB君が「ふざけんじゃねえよ!」と脅したからです。なぜふざけんじゃねえよ」と言ったかというと、その直前、信号待ちの横断歩道でB君が待っていたらA君が割り込んできたからです。A君にその記憶はありません。

 結局私は事務室から集会室へ、下足箱から屋外に出て横断歩道の手前、その先の信号待ちの所まで二人を連れて延々と移動することになりました。しかしそれで真相がわかります。
 そして、
「B君、いくら横入りされたからといって『ふざけんじゃねえよ!』ではA君もわからないだろ。A君は気がついていないのだから『横入りはダメだよ』と言ってあげればよかったんだ。そうだね。だけどA君もいくら何でもうしろから蹴っちゃだめだよね。
 じゃあ最初に脅すようなことをいったB君から、そしてうしろから蹴っちゃったA君が次に、お互いに謝ろう」
 これで手打ちです。

 私は何をしているのか?
 ひとつはもちろん真実の探求です。小学生の事件など、言葉のやり取りだけでやっつけようとすると必ず足元をすくわれます。その子の話がどんなに辻褄が合っているように見えても、それは結局、『ぼくの見た、ぼくの世界の、ぼくの物語』なのです。信用なりません。
 小学生はうそつきだといっているのではありません。極めて主観的なのです。

 現場検証のもう一つの目的は、そうした主観的な見方に対して客観性を導入することです。東野圭吾ガリレオ先生ではありませんが「すべての現象にはワケがある」のです。誰かが嫌なことをしてもそれには理由がある、もしかしたら自分が原因かいも知れない、そういう怖れを持つ子に育てるためには、どうしても自分の行為をまるで他人がやったことのように客観的に見せる必要があります。

 先ほどの例でいえば、A君がB君を蹴ったとき、それなりの理由がありました。具体的に言えば“バーカ”とからかわれたことです。しかし現場検証のモデルとなった私を蹴るときには感情的な理由はありません。主観的な理由のない状況で蹴りを繰り返すことによって、A君の心の中には行為の罪深さは自ずと入っていくのです。
 これにはいくらでも前例があります。

(この稿、続く)