カイト・カフェ

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「教科書にはタネ本がある」~教科書の話①

 日曜日の「そこまで言って委員会」で所功(ところ・いさお)という法学者、歴史学者、法制史学者が面白い発言をしていました。それは過去に教科書の検定委員をやった経験から、
「教科書自体は細かな検定を受けて学習指導要領に沿ったものになっているが、先生たちが実際に授業を行う際にタネ本としている指導書については一切検定を行っていない。したがって教科書会社はその中で自由に偏向的な内容を盛り込むことができ、先生たちは自ずとそれに従ってしまう。また指導書は1冊1万円以上するので先生方個人では購入できず、どうしても公費で買うことになる。偏向教育に公費が使われるという意味で大きな問題である(大意)」
というものです。
 ああ、そういう見方があるのかと少し驚きました。

 出演者たちはまず「教科書にタネ本」があるということ自体に驚いていました。大昔、書店で売っていた「教科書ガイド」(今もあるが内容が同じものかどうかは最近、中を見ていないので不明)のようなものを思い浮かべるらしく、それさえ手に入れれば学校のテストは満点が取れるのか、といった方向に話が流れそうになります。しかし違います。もちろん購入して丁寧に勉強すれば確実に成績は上がりますが、だったら市販の参考書の方がよほど安くて便利です。それに普通の小学生や中学生に理解できる内容でもありません。語の細かな説明や背景・歴史、教え方などについて解説しているわけですから。

 私の若い頃、中学校では指導書を見て授業内容を考える教師などほとんどいませんでした。それどころか教科書を使わずに授業を行える教師こそ本物の教師だといった雰囲気がありました。教材は自分で用意し授業は自分でアレンジすべきもの、他人(教科書会社)に頼るのは二流の教師のやることでした。

 ところが平成2年の福岡伝習館訴訟あたりから雰囲気が変わってきます。
 この裁判では福岡県の伝習館高校に勤務していた3人の教師が、授業における教科書の不使用などを理由に懲戒免職に処分を受けたことの是非が問われ、最高裁は処分の正当性を支持したのです。つまり授業で教科書を使わないことは違法と判断されたのです。
 そのあたりからそれまでとは違った風が吹いてきます。「教科書もなかなかいいところがある」とか「教科書さえ扱えない教師に本物の授業はできない」とか――その変わり身の早さには私も少々あきれました。

 一方、小学校では別の事情がありました。私はちょうどそのころ中学校から小学校を覗きに行って(というか異動して)、指導書に繰り返し目を通す教師たちに出会います。彼らは実によく指導書を利用します。
 そこにはもちろん一人で一日に4教科も5教科も教えなければならないという小学校の特殊性があります。全部自前で用意していたのではとても追いつかないのです。
 しかしもっと大きな理由は「とにかく教科書が薄すぎて内容が簡略化され、なぜそういう流れになっているのか、どうしてその一項が置かれているのか、教科書を読んだだけではさっぱり分からない」というものです。

(この稿、続く)