カイト・カフェ

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「子どもの成長と人生の設計図を描く」~子どもの導き方のあれこれ⑧

 生活の端々で、
 ことの善悪・正邪をたちどころに判断して指導できる大人はいい。
 そうではなく、常に物事を相対的に考え判断の遅れる人には、
 子の成長と将来の設計図を描くことが一助となるだろう。
という話。f:id:kite-cafe:20210218072544j:plain(写真:フォトAC)

 

【こんなふうに育って欲しいという具体的な枠】

 「子どもには自由に伸び伸びと育って欲しい」という親や教師の願いも、考えてみると何でもかんでも破天荒にやっていいということではなく、ある一定の、模糊としてはっきりしない枠の中でのことが理解されます。
 問題はその“枠”がはっきりしないまま現実に問題が起こらないと見えてこないこと、そして見えてきたときにはたいていが手遅れだということです。

 これはもうその人自身の育ちとしか言いようがないのですが、人間としてすべきこと、してはいけないことが生活の隅々まではっきりしていて、何かあると反射的に動ける人がいます。例えば食事中、子どもが肘をついて食べようとした瞬間に気づいてひとこと言える人です。
 あるいはものごとの好き嫌いがはっきりしていて、気に入らないことが起こるとすぐに反応できる人もいます。
 こういう人たちは人を育てる上でとても有利だと、いつも羨ましく思います。指導はその場その場が勝負ですから、速くないとだめなのです。

 私などは子どもが相当にいけないことをしても気づくのに遅れ、叱るに遅れることがあります。事件が起こって二日もたってから、
「ああ、あの時のアレな、よく考えたのだけどやっぱり間違っていると思うぞ」
などと言っても、当人が何のことやら思い出せなくなっていることもあるのです。

 人は誤りを犯す生き物ですから間違いはそのつど直して行けばいいようなものですが、子どもの成長は超高速ですから間に合わないことも出て来ます。ですからやはり「これ以上ははみ出してほしくない」という枠をもち、それだけは死守するというやりかたの方が、センスの悪い人間には向いているのかもしれません。
 そのために「自由で伸び伸びと」といった抽象的なものではなく、「この子にはこんなふうに育って、こんな人生を送ってほしい」という具体的な設計図を描くことが必要だと思うのです。
 
 

【子どもの成長と人生の設計図】

 私は自分自身の二人の子にはかなりはっきりとそうしましたし、児童生徒に関しては特に困難を抱える子については、大雑把に設計図を描くようにしていました。
 私のような自由主義者が子どもの人生を規定するのは矛盾した行為のように見えるかもしれませんが、大丈夫です。私は自信をもってこう言うことができるからです。
 どのような強力な設計図を描いても、子どもは思った通りには育ってくれない。
 そのことに気づいてから、私は安心して子どもたちにあれこれ言うことができるようになりました。

 結果的に一人もいませんでしたが、万が一、私の設計図通りに生きてしまう子がいても、人生経験を経た大人が考えたことですから、そう大きく方向を誤っていることはないでしょう。それに親や教師の考える範囲に収まってしまうような子ならその程度の子ですから、大人の敷いたレールに乗っていれば幸せになれます。大人がどんなに頑張ってもその範囲に収められない子は――それはもう才能のある子ですからハードルをさらに上げてあげればいいだけのことです。

 ありふれたドラマで言えば、同族会社の社長が子どもたちに跡を継がせようとその前にレールを敷いた場合、それに乗ってくる子であればそこそこ幸せになる道筋が見えてきますし、逆に絶対に乗らないと決心して遠ざかる子であれば強い生き方ができます。親を裏切って進むわけですから、親の意志が強ければ強いほど生き方も強くなるでしょう。 
 大人の描いた設計図など実はたいしたものではなく、強いて言えば大人にとっては指導の目安、子どもにとっては自分の位置を確認するための単なる座標軸のようなものなのです。
 
 

【強権的な親と寛容な親。どちらが優しい親なのかは分からない】

 そうした強権的な教育と「お前の自由に生きなさい」といった寛容な教育を比べて、どちらが子どもにとって良いのかは不明です。自由はときに重荷ですし、「自由に生きなさい」の裏側には、「けれどうまくいかなかったときの責任も自分がとるのだよ」が見え隠れします。
 本人に明確な意識はなくても、もしかしたら「自由に生きなさい」と言う大人の一部は、子どもの人生に関与する自信がなかったり、責任をとりたくなかったりするからそういっているだけのかもしれません。
 うまくいかなかったときには自分のせいにしてくれてかまわない、そのくらいの覚悟があって強権的である大人だっているのです。

(この稿、次回最終)