最近テレビを見ていてひどく気になる言葉のひとつは「やんちゃ」です。
「やんちゃ」は国語辞典にもあるように「子供が、わがまま(いたずら)なこと」で、私の感覚から言えばせいぜいが小学校の低学年どまりです。それ以上の年齢に「やんちゃ」な子はいません。
ところが最近の使われ方だと「私がまだ中学生で『やんちゃ』だったころ」とか、「高校生のときはあんなに『やんちゃ』だった○○ちゃんが」といったふうで、年齢がグンと上がっています。それどころか内容もハンパではなく、もうほとんど不良なのです。ただ刑事事件などは起こさなかったからその意味では軽い、だから「やんちゃ」と言うことなのかもしれません。
しかしこれには自分や自分の息子の不良行為を軽い表現で浮かせて、「ほとんど大したことはなかったことにしよう」といったあくどい配慮があるとしか思えません。その「やんちゃ」のために迷惑した人たちは、「やんちゃ」では済まされないのですから。
言葉というものは日々変化していくものです。しかしそれにも法則があって、あまりにも常軌を逸したものや不適切なものは定着しません。古くは「チョベリグ」から比較的近いところでは「どんだけぇ〜」も、いつの間にか消えてしまいました。「やんちゃ」も同じように消えて言ってくれるとよいのですが。
さて、言葉の変化というとすっかり市民権を得てしまったものもあります。例えば「10回」は「じっかい」が正しいのですが、今では「じゅっかい」が主流です。「10個」も「じっこ」が正しいのに正しく発音すると田舎者に思われます(田舎者ですが)。
独擅場(どくせんじょう)に至ってはワープロ変換でも出ないときがあります。独擅場(どくだんじょう)の方が圧倒的に出やすいのです(本来正しいのは「てへん」の「擅」を使う「独擅場《どくせんじょう》」)。
自分が中学生のころ覚えたタイのメナム川。現地の人は「チャオプラヤ・メナム」と呼び、「メナム」は「川」の意味なのだそうです。そこでいつからか教科書も「チャオプラヤ川」に直されました。
ただし「ガンジス」も「ナイル」も「インダス」も「メコン」も「アムール」も、すべて「川」という意味で、それなのに直されていないと薀蓄を語る人がいます(ちなみに、サハラは「砂漠」という意味だと言っていました)。
その他「姑息」は「その場しのぎ」のことだとか、「にやける」は「男が妙に弱々しく色っぽいようすをする」ことだとか、驚かされることは多いのですが、最近一番驚いたのは「洒落」の左側の字は「酒(さけ)」ではないということです。よく見ると「さんずい」に「西」なのです。
ワープロで拡大するとこうなります。
「洒落」
けっこうしばしば書いてきたにもかかわらず、生まれてから一度も正しく書いたことのない漢字があったということに、まず驚きました。