カイト・カフェ

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「教師諸君、参観日に行こう」~自分の家庭をきちんと守るのは、教師にとっての保険だ

【我が家のクソガキの話】

 息子が小学校1年生になった年の最初の参観日のこと、教室を見に行くと実に美しい座り姿で授業に集中しているので、つくづく感心させられました。手もしっかりと上げて発言します。
 授業を半分ほど見て今度は上の子の教室を参観し、時間がないのでそこそこに学校を出ようとして、はたと考えてしまいました。上の娘はともかく下の息子があんなにいい子であるはずがない、そこでもう一度1年生の教室に行って廊下から覗くと、息子は椅子の上にあがり、背もたれに腰掛けて授業を受けていました。しばらく睨みつけていると、本人ではなく隣りの子が先に気づいて息子に教え、息子は慌てて椅子から降りると元の「すばらしい1年生」に戻って何事もなかったかのように授業に集中し始めます。そんなものです。

 夏の水泳参観のとき、少し遅れてプールにいくと、息子の周辺に人だかりができています。そんなに人気のある子ではないと思いながら近づくと、ミズカマキリを手にしているのです。子どもたちはそれを見ていたのです。
 授業が始まって準備体操が始まっても息子は小さな虫を離しません。わき腹をつかまれて振り回される虫もたまったものではありません。さて、ところで水に入るときはどうするのだろうと思って見ていると、先生が「さあ足から静かに入りましょう」と声をかけ、その瞬間、息子は口をカッと開けるとその中にミズカマキリを確保してしまったのです。そのまま水に入っていきます。
 あとで聞くと、ミズカマキリはいつの間にか「口の中から出て行ってしまった」そうですが、実際、子どもは何をするか分かりません。

【自分の家庭をきちんと守るのは、教師にとっての保険だ】

 そんなふうに私は、よほど大きな仕事上のことが重ならない限り、二人の子どもの参観日や発表会には丁寧に出てきました。教室をあけて出て行くことに抵抗がないわけではありませんが、おして出かけました。

 教師の中にはそういうことを極端に嫌い、実際にご自分でそうしておられる方もあります。学校にいる限り、担任は教師であり、親であり、親友でもある、そんな大切な存在がクラスを置いて外に出かけるのは一種の“浮気だ”と、そんなふうに考えるみたいです。実際にそういったタイプの人はクラスに全精力を傾け、とても立派な学級を育て上げたりもします。しかし私は何となく不安なのです。

 そんなふうに参観日にも行ってやらず、夜も遅くまで学校に残って家庭を顧みない生活を送り続け、それで家がうまく回っていくものか。学校と家の両方に不登校問題を抱えて四苦八苦している教員なんていくらでもいます。若くして校長になった先生が、息子のために繰り返し警察に行っているような例も知っています。家が完全に崩壊してしまったら、学校の教育活動など身が入るはずがありません。

 私は、教師が自分の家庭をきちんと守るのは、一種の保険だと思っています。警察官も自分の子が犯罪者になったらやっていられないように、教員も子育てで大きな失敗をしてしまうと、本業に差し支えます。偉そうなことを言うのに気おくれがするのです(そしてその“偉そうなこと”には意味ある場合が少なくありません)。その保険料を支払うために、二ヶ月に一回くらいの参観日に学校を空けるのは当然のことだと考えています。

 他人の子もわが子も、等しく大切にするのが私たちの務めです。どちらを欠いても正しい生き方だとは思いません。