カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「あの人ならどう考えるか」~父が死んだ

 日曜日に、父が死にました。

 

 子どものころ、父は非常に遠い人でした。市役所の職員でしたが38歳で課長、48歳で部長と異例の出世をした人です。しかしそのことは私にとっては少しも幸せなことではなく、土日も含めて年中仕事ばかりで、一緒に遊んでもらった記憶がありません。

 

 ずいぶん年月がたってから、近所の赤ん坊を借りてきては可愛がっている姿を見て、初めてこの人が子ども好きをだと知った有様です。母に聞くと、「小さなころはお前もずいぶんと可愛がってもらったものだ」ということでした。

 

 小学校の高学年以降はさっぱり顔を合わせなくなった父親ですが、それでも重要な問題が持ち上がったときには「ここは父親の出番」みたいに母親が押し出すので、いやおうなく面と向かい合うことになります。しかし日ごろ付き合いのない者どうしが顔を突き合わせてもうまく行くはずがありません。頑として自説を曲げない人で、そのたびにウンザリしたものです。

 

「どうしてこの人はこうも頑固なのか」

 自分の中にそうした要素がまったくないので、私はいつも不思議に思ったものです。

 

 父と私の関係で言えば、もうひとつ深く記憶に染み付いているのは、あれほど頑固に自説を曲げなかったのに、中学、高校と進学するたびに私に対する対応が大きく変わったことです。まるで内部に「小学生はこうあるべき」「中学生はかくあるべき」といった基準があったかのように、許可される範囲が一気に増え、そして止まります。次のステップを踏むまで許されることが新たに増えるわけではありませんでした。

 

 長じて、今、私は父とまったく同じことをしています。そして何かを判断するときは、「あの人だったらどう考えるか」ということが頭をよぎります(だからといってそれに従うわけではありません)。

 

 二十歳になった年に、出張で出かけてきた父と新宿駅で会いました。夕食をご馳走してくれるとことと。高価な寿司屋に入って次々と注文を出すのですが、私は生ものなんかあまり好きでないので、戸惑うばかりでした。そして「飲むか?」というと返事も聞かずにお銚子を頼み、嬉しそうに私に注ぎます。

 

 ああ、この人は私が二十歳になって一緒に酒を飲む日をずっと待っていたんだ。

そう思うと何か切なくなりなりました。

 

 その夜、私のアパートに泊まった父は、朝になってステテコ姿のまま共同便所に行こうとしてまたオタオタと戻ってきました。「どうした?」と聞くと、「おまえに恥をかかせてはいけないと思って」そう言ってズボンをはいて出直して行きました。

 

 私にとっては心理的に父を乗り越えてしまった瞬間でした。いや、父の方から私の下にもぐりこんでしまった瞬間だったといえます。

 

 それが一番悲しい思い出で、以後、父について悲しい思いをすることはありませんでした。

 

 今もそうです。