世間は分かってくれない

 係として地区の「人権啓発協議会総会」というのに出席してきました。要するに地域の社会人権教育の中心となる組織です。今ごろ本年度の事業計画を話し合うというなんとものんきな協議会で、特に紛糾することもなく30分足らずで終わりかけたとき委員の一人から「せっかくの機会ですから、学校のいじめ問題がどうなっているかお聞きしたい」というお話があり、少し説明することになりました。

 私のお話したことは、本校ことがひとつ、一般論が二つです。

 まず申し上げたのは、本校には深刻なイジメ問題は一件もないということです。もちろん人をからかったり小さな嫌がらせをしたりということはあるかもしれませんが、何しろ人数が人数なのですぐに担任の手が入り、解決するようにしている。もしかしたら介入しなくてよいことにまで介入しているかもしれませんが、とにかく問題はその場で次々と解決しています。少なくとも私が知る限りはそうです。その上で一般論としてお話します

 まず、「最近のイジメは陰湿化して、なかなか発見できない」という言い方がありますがこれは当然で、表立ったいじめを片端潰せば、あとは陰湿ないじめが残りあるいはもともと表にあったものも沈潜していきます。ですからある意味、学校の指導が追いつめた結果、現在のような状況になったといえます。だから問題はないとは言いませんが、昔より状況が悪くなったということではありません。

 第二に申し上げたいのはイジメの指導というのは、外で考えるよりずっと難しいということです。

 実は15年ほど前、同和教育というのが急にやりにくくなったことがありました。世の中にはこんなひどい差別がある、といった学習をしても子どもたちにはピンとこないのです。そんなの悪いに決まっているじゃんというのです。もう親や祖父母たちから差別を教えられてこなかった子たちがほとんどですから、差別の悪を教えてもうまくかみ合わないのです。

 部落差別は理由のない差別だから決して行ってはならない、そんなことは十分に知っている。しかしボクの隣にいるコイツはいじめてもいい、とこうなります。なぜかというと隣のコイツにはいじめられるだけの理由がある、理由のない差別ではないのだと。

 コイツはグズでノロマで、同じ委員会になんかなったら仕事は全部やらされてしまう。その上ぜんぜん悪びれた様子も見せない。口で何度言っても直してくれないから、もう無視して反省してもらうしかない、そういう論理があるのです。そうしたところに、相手がどんな人間であっても無視するのは良くない、仲良く遊びなさいと言っても簡単には通らないのです。

 あるいは、よく「いじめる側といじめられる側が一夜にして交代してしまう場合がある」と言われますよね。もちろんこれは両者が同じタチを持っているからそうなるのですが、その新しいいじめられっ子が一方的に「私はいじめられている」と訴えてきたらどうなるでしょう。

 文科省は「いじめられたとする児童生徒の立場に立って」いじめかどうかを判断しなさいと言っています。マスコミなども「いじめられる側にも責任があるという人もいるがそんなことは絶対ない。いじめる側が100%悪い」と言ったりします。またその保護者も「確かにウチの娘もこれまでさんざん酷いことをしてきた、しかしだからといって無視したりするのはあまりにも酷いじゃないか」とか言ってきたりします。しかしどうでしょう。きのうまでさんざんいじめられてきて今日初めて優位に立った子に、「お前が100%悪い」で指導ができるのでしょうか。

 学校からいじめがなくならないのは、こうした複雑な経緯があるからなのです。                              (続く)