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「いじめの被害者と加害者を、100対0で指導してはいけない」~人権週間に寄せて

 2006年に「学校の悪魔」といういじめに関する書籍が出版され、ベストセラーになったことがあります。その年の10月に、岐阜県瑞浪市で起きた中学校女子バスケット部のいじめ―自殺事件を機に、緊急出版されたものです。
 いじめはもはや因果の鎖から解き放たれ、個人の性格や能力、家族関係や学校生活のありかたなどとまったく無関係に、全員が罹る一種の疫病なのだからだ。どんな子育てをしようとも、全員が加害者または被害者になるしかない恐ろしい病気なのである。
といったムチャクチャな論理で押してくるとても感心できない本でしたが、これが受け入れられる素地は、当時の社会には確かにあったような気がします。

 「いじめは、いじめた方が100%悪い」は、そのころさかんに言われたことです。しかしどんな場合にも、人間関係において100対0ということはそうはありません。瑞浪事件において被害者に非があったとは思いませんが、加害者側に「100%お前たちが悪いのだから反省しなさい」では指導にならないのも事実です。それに100:0の論理では、汲み取るべき教訓も得られなくなってしまいます。

 いじめはしばしば、加害者の欲求不満解消といった説や、異端を排除する学校のあり方が誘発するといった説、あるいは集団心理の問題として語られます。しかしいったん始まったいじめがエスカレートするのは集団心理や「いじめなければ、いじめられる」といった力学によって説明できるにしても、なぜ特定の誰かが選ばれ、いじめがスタートするのかといった最初の段階を説明するのは困難です。小学校の1・2年生ならまだしも、高学年以上になればいじめが悪いといったことは、耳にタコができるほど教えられているはずですから、人をいじめるには罪悪感が付きまとうはずなのです。それなのに現実にいじめが起きるのはなぜか。

 これについて最も納得できる説明をしてくれたのは高垣忠一郎『登校拒否・不登校をめぐって』(青木書店、1991)でした。
「しかし高学年にもなってくれば、自己客観視に必要な認識面での能力は、それなりに発達してきているはずであり、それができないとなれば、自己客観視を困難にする他の要因を考えねばならない。そのような要因の一つとして考えられるのは、被害者意識である。いじめる側の心のすみにでも被害者意識があれば、それが邪魔をして、自己の加害者としての立場に気づかせないことが往々にしてある」

 いじめ問題、ひいては人権問題を解くカギのひとつはここにあると思います。

 誰かから直接的な被害を受けた(攻撃を受けた、いやなことを言われた、仕事を押しつけられた、足を引っ張られた、比べられた等)という被害者意識は、「相手も同じように傷つくべきだ」という思いを生み出します。公平を求めることは正義ですから、口で言ってもわからない、何度言っても改善が見られないなど通常の方法が通用しないと、暴力やいやがらせも仕方ないといった意識が芽生えます。こうした事情を背景として、被害を受けていると意識する子たちの中から、あるいは被害者を代弁する形で加害者は現われてきます。そんなふうに思うのです。

 たいへんに我がままで身勝手な論理ながら、加害者に被害者意識があり主観的には正義を押し立てていじめている(少なくとも最初の段階では)、そのことを頭の隅においておかないと、いじめの指導は決定的な過ちを犯すことになります。加害者の気持ちを汲み取れというのではありません。そういうものが念頭にあるということを前提に、指導を始めなくてはならないということです。

 いじめや人権侵害をなくすためには、究極的には、多少の迷惑や不平等には平然と対処できる強い精神を養わなければならないと、私は思っています。