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「佐世保事件から5年」~ほんとうに”どこにでもいるような普通の子”だったのか

 昨日6月1日は、小学6年生の女子が同級生を殺した「佐世保事件」から満5年目になる日だったそうです。あの日、全身に返り血を浴びた加害少女が教室に戻ってきたのを目撃した子どもたちも、もう高校2年生になったのです。加害の少女も17歳になりますが、被害者の方は永遠に12歳のままです。加害者、被害者そして同級生だった子どもたち、そのどの子のことを考えても、暗澹たる気持ちにさせられます。

 少年による重大事件が起こると多くの場合、「どこにでもいるような」「目立たない」「ごく普通の」といった言葉が乱用されます。しかしどう考えても「普通の子」が人を殺したりするはずはありませ。そこには必ず何らかの予兆があったはずです。私たちがそれを見落としていたり、読み間違ったりしているだけのような気がするのです。

 殺人は身近な犯罪ではありませんから「このまま行くと人殺しになるかもしれない」といった見通しがつくわけがありません。しかし「このまま行ったら将来はとても苦しいものになるだろう」とか、「犯罪に走ることになるも知れない」とかあるいは「ギクシャクした友だち関係を引きずることになるかもしれない」とかいった予兆は、少なくとも教師たちには分かっていたのではないでしょうか。

 少年事件については事件後も詳細な情報を得ることができないので、その教訓を生かすことは困難です。それに「この子、変だ」とか「この子は心配だ」とかいった児童はクラスにいくらでもいますから、犯罪を未然に防げなかったことを非難はできません。しかし少しでも心配な子にはとりあえず一つでも二つでも手を打っておかなければ、教員として大きな禍根を残すことになりかねません。もう一度、改めてクラスの中を見てみたいものです。