錯誤はどこにあったのか�C

「教師というのは恐ろしく真面目で誠実な人たちだ」ということを前提にすると、「一度、先生は注意したけれどその後は一緒になって笑っていた」という話も別の色彩を帯びてきます。私の知るところではこの時行われていた暴力は加害者が被害者にヘッドロックをかけるというものです。7月6日付の朝日新聞の記事によると、  生徒らは昨年12月、家族に直接証言した。それによると、担任教師の名前を挙げ、いじめたとされる生徒2人が亡くなった生徒に暴力をふるっているのに、「隣にいたが止めなかった。笑ってた。『やりすぎんなよ』って」と話した。ほかの生徒も同様の証言をし、「周りにほかの教師もいた」と話す生徒もいた。  ということになります。  客観的事実はその通りでしょう。しかし主観的事実は異なっていました。証言した生徒たちにとってそれは“いじめ”であり、教師にとっては“(行き過ぎた)悪ふざけ”だったのです。  その差はどこから生まれるかと言うと、ヘッド・ロックかけている生徒とかけられている生徒の、人間関係に関する知識理解の違いです。二人に関する情報量が証言した生徒と担任教師では決定的に違っていたのです。  証言した生徒はすでに二人が「いじめ=いじめられる」関係であると知っていました。しかし教師のそれは相変わらず「同じ仲間同士」です。人間関係がそういうレベルに変化していることを知らなかったのです。ただしいくら仲間同士の悪ふざけでも、やられている方が「半泣き」となるとちょっと問題で、だから「やりすぎんなよ」ということになります。  そもそも加害の子も、そうした甘い認識を見透かしているからこそ教師の目の前でプロレス技できたのです。もしかしたら本人が証言しているように、本気で“遊び”のつもりだったのかもしれません。自分は楽しいのですから。  いずれにしろ当該の学校では日常的にそういう風景が繰り広げられていたのでしょう。その中で、本物の“いじめ”は日常の悪ふざけの中に紛れてしまいます。ちょうど26年前、富士見中学校の荒れ狂った日常の中で、「葬式ごっこ」など取るに足らない人権侵害と思えたように。  二人の関係を、生徒は知っていたのに教師は知らなかった、そんな事があるのでしょうか。これについてあるニュース番組で卒業生と称する女の子が、インタビューに答えてこんなことを言っていました。 「生徒が知っていて先生が知らないのは、あり得ないと思うんですよ」  インタビューアーは大きくうなづいていましたがそんなことはありません。子ども社会の情報はそう簡単には大人社会に上がってこないのです。それが子どもの世界の仁義で、昔も今も堅く守られています。あるテレビ番組のコメンテーターは「親もおかしい。子どもは絶対親にしゃべっているはずだ。なのにその時は手を打たないで、今頃問題にしている」と発言していましたが、小学生ならともかく、中学生は基本的に親にも話しません。しゃべる子がいたとしても、他人の子のためにすぐに動くような親は稀でしょう。  平成元年に起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」では、  少女監禁の事実は仲間を通じて子どもたちの間に相当広まっており、直接合った者だけでも13人を越え、話として聞いていた者は100人を越える。それなのに誰一人、大人の世界に通牒するものはなく、少女は死んでいった。(「うちの子がなぜ!」 草思社 1990) それが子ども社会の掟です。  今回の事件でも、アンケートには実に多くの事例があがってきますが「どれもこれも伝聞で直接見た者は少ない」ということになっています。この件がいかに多くの子たちの口に上っていたかが分かります。しかし直接教師に訴えた例はごくわずかで、教師たちに現実的な問題として浮かび上がってきたのは、自殺のわずか一週間前でした。  目の前の“いじめ”が悪ふざけにしか見えない、錯誤はそこにあったのです。 *いじめの情報は山ほどあるのにほとんどが伝聞である(ヘッドロックとトイレの喧嘩、体育祭の日の“いじめ”には目撃者がいます。しかしもっとも大きな問題であったはずの「自殺の練習」と「葬式ごっこ」については今のところ目撃者が出てきません)ことには理由があると思います。  私の今の考えだと、情報のすべての発信者は“加害者本人”です。子どもは事態の重大性を理解できず、平気でベラベラと吹聴することがあります。直接の目撃者がいないのはそのためです。