『魏志倭人伝』には「日本には馬はいない」というきわめて注目すべき言葉があります。それよりわずか百数十年後、日本を制圧した大和朝廷グループは馬を駆使したことで知られていますから、いつ馬が日本に来て日本人が有数の馬使いになったか問題になるのです。
しかし今話したいことはそれではありません。日本には馬がいなかったため「馬」を表す言葉がなく、中国語の「ンマ」がそのまま用いられているうちに、「うま」と発音されるようになったという、その話です。
現代の日本でもコンピュータにはいったん「電子計算機」という訳語がつくられたものの、本場アメリカでの発達が異常に早く、いつしか「計算機」の枠をはみ出てしまったので訳しようがなく、「コンピュータ」がそのまま使われるようになりました。日本の方が「電子計算機」を早く発達させていたら、あの機械には別の名前がついていたはずです。
パンダは日本にいなかったのでパンダです。しかしキャットという言葉が日本に来たとき、猫はすでにいましたから「キャット」と呼ばれることはありませんでした。
名前のないものは存在せず、存在するものには必ず名前があります。
さて、たいていの日本人は日本語でものを考えています。したがって日本語の豊かさがその人の思考の豊かさです。「抽象」という言葉を知らない人は「抽象」に関わる一切の思考ができません。「ソウル・キャリバー」を知らない人は(私も知りませんでした、ゲームの名前だそうです)「ソウル・キャリバー」についてまったく話ができません。そのひとの頭の中には、それらの言葉がなく、したがってそれらは存在しないからです。
豊かなものの見方考え方ができる、深い思考ができるといったことは、半ば以上、豊かな語彙を所有しているかどうかにかかっています。きっとそうです。
ですから私たちは、子どもに本を大量に読ませ、人とより多くの会話をさせなくてはならないのです。