カイト・カフェ

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「相殺の論理」~子どもの悪事が、指導の仕方と相殺される日

 だいぶ前の話ですが、清掃の時間に低学年の教室の前を通りかかったら、ずいぶんとふざけて遊んでいる男子がいて、思わず怒鳴りあげたことがあります。その勢いが余って、その子の名をつい呼び捨てにしてしまったところ、周囲にいた女の子たちに、いっせいに「あ、呼び捨てにした~」と非難されてしまいました。清掃をサボって遊んでいた男の子の罪と、呼び捨てにした私の罪が、一瞬にして相殺された瞬間でした。

 先日、校長室に叱られに来た高学年の男の子が、教室へ帰って書いた反省文に「(担任の)先生に悪いことがあったら言いに行っていいですか?」と書き込んだことを知りました。この子は反省はしましたが同時に、自分が受けた扱いは担任も受けるべきだという激しい公平への希求を文に認めたのです。将来チャンスがあったら、担任の罪と自分の罪を相殺しようというのです。

 ここ10年ほどの間に非常に増えてきたのは「確かに悪いことはしたが、その怒り方は不適切で問題だ」というものです。主として保護者から寄せられます。
「確かにウチの子も悪いかもしれませんが、そんな言い方をすれば子どもは傷つくでしょ? その傷が一生残ったらどう責任を取ってくれるのですか?」
といった類のものです。

 もちろん体罰なんかすれば、その瞬間にその子の罪は消え、教師は処罰されます。教委の処罰を受けるとともにマスコミから叩かれ、社会的にも葬られます(署の瞬間から、その子の罪は一切問われません)。そして言葉による“心罰”もしばしば同じ扱いを受けます。

 とにかく、教師は(親は別のようです)子どもの心を小指の先ほども傷つけてはいけないという考え方が、今日主流になりつつあります。
 教員は当然臆病になり、できるだけ子どもが動揺しない言い方(!?)で子どもを叱ることになります。

 かくして学校は子どもを鍛えるシステムを失い、次第に福祉施設もしくは乳児院となっていくのです。