「防衛的になる学校の危機管理」

 

 校庭の遊具が6個(回旋塔、ふたつの空中シーソー、三つの丸平均台)も撤去されてしまいました。危険といえばブランコも登り棒も危険ですから、全ての遊具が校庭からなくなってしまう日も遠いことではないのかもしれません。何でも学校に責任を負ってもらおうという時代ですからしかたないのかもしれませんが寂しいことです。

 

 ここ数年、学校は極端に防衛的になっています。「学校の危機管理」という言葉も、最初は災害や犯罪に対してどういう備えと対応をするのかというのがテーマでしたが、最近では世間(マスコミ)から追求されないためにはどうすれば良いのかといった曲がった内容が中心になってしまっています。しかしそれもしかたないことです。

 

「いじめられて、さようなら」(佐瀬稔 草思社 1992)という本があります。これは「いじめ・自殺」事件を裁判を中心としてあつかったルポルタージュなのですが、読んで学んだことは、何が何でも裁判にかけられてはいけないということです。

 なぜなら、裁判を通じて争われるのは真実が何であったかということではなく、賠償金をいくらにするかという金額の多寡だからなのです。出廷を求められた学校は毎月のように膨大な資料を用意して裁判所に向かいます。大変な労力を使った上に、ボロボロに傷つけられて帰ってこなければなりません。私自身もそんな目に会いたくありませんし、先生方をそんなことにかり出すこともできません。

 

 また、JR西日本の例でも分かるように、裁判になる前にマスコミによって学校はボロボロにさせられてしまいます。事件は起こすだけでアウトなのです。

 

 昨日、朝のニュースショーを見ていたら、副業として私立学校の校長もやっているという人(本業が何であったか忘れてしまいましたが)が次のような発言をしていました。

「(高校生による両親殺害・爆破事件について)子どもが悪い、親が悪いと言ってもだめなのです。なぜ教師は子どもと面と向かって問題に立ち向かうことができなかったのか。校長が『親を殺したいと言っていたようです』なんていっているようではだめで、きちんと話せば子どもはわかるはずなのです。私の学校にも担任から見ればどうしようもない子がいます。そういう子は私が校長室で一対一できちんと話します。そうすれば必ず分かるのです」

 こうした発言を視聴者が鵜呑みにするとは思いませんが、子どもについて学校は何でもできるはずだ、できなかった学校には損害賠償を請求できるはずだ、といった思いは確実に昂進していくはずです。

 

 とにかく熱意をもって子どもに向かってさえいれば良かった時代は終わりました。私たちは常に身辺に注意し、脇を甘くしないように気をつけていなければなりません。